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高田豊

土方日記

多摩無名労働者詩集

Yahoo!オークションに『多摩無名労働者詩集 1974』が安く出ていたので、落札して購入した。
帯の表紙側は「日本労働組合総評議会 議長 市川誠」、裏表紙側は「新日本文学会幹事 国分一太郎」の言葉。
奥付では1974年9月20日発行となっている。

無名詩人がベトナムを、砂川を、メーデーを歌う。
その中に、「土方日記」と「車」という二つの詩が収録されている。
高田豊の詩だ。

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(一九〇五– 一九六七)大正末期から詩を書き、
戦後は全日自労の一員として活躍し、膨大な量
の手記・自伝・川柳・詩・オルグのメモ・口伝
のテープなどを残している。
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「土方日記」には、子供のことが出てくる。

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  とうとう五年も住みなれた
  ここらでぼつぼつ宿がえりや
  四人のガキが大きゆなり
  せまくなったで左様なら
  忘れやせんぞ仲間たち
  みちで会ったら手をあげよ
  たまには呑もう手をとって
———————————————-

四人のガキの末っ子、渡さんは、一足早く豊さんのところへ行ってしまった。

高田渡と父・豊の「生活の柄」


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新川南台団地

東京都三鷹市新川

『高田渡と父・豊の「生活の柄」』の続きを読んでわかった。
昨夜書いた内容は少し間違っている。
高田渡さんのお父さん、高田豊さんが晩年に自費出版した『詭妄性詩集』に収録された詩が、二十歳の頃に書いたものだったということで、死ぬまでずっといろいろ書き続けていたそうだ。

1957年に妻を癌で亡くした高田豊は、家屋敷を整理し、四人の子供を連れて上京する。
何のあてもない無謀な上京であり、一家はそれから数年の間、大変な苦労をすることになる。
例の深川時代の生活が、かなり具体的なことまで書かれている。

最底辺の水準まで落ちて、高田豊は五十代になってからニコヨンの肉体労働に従事する。
凄まじい貧しさだ。
そこからなんとか抜け出て、高田一家は三鷹に移り住む。
三鷹市新川の都営新川南台団地。

実は70年代のその辺りの風景はすぐに思い浮かべることができる。
吉祥寺駅の西側、北から南へ井の頭自然文化園の間を通って、バス通りを三十分ほど歩く。
いや、もう少しかかるか。

高田一家は都営アパートの四階に暮らしたそうだ。
渡さんが通った第五中学校は、中央高速を越えたところにある。
吉祥寺駅や三鷹駅よりも、京王線の仙川の方が近いだろう。

今はもうないんだろうか。

高田渡と父・豊の「生活の柄」


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火吹竹 #3

高田渡と父・豊の「生活の柄」

『高田渡と父・豊の「生活の柄」』を少しずつ読んでいる。
最初は渡さんのお父さんやお祖父さんのことが書いてある。
これは初めて知ったことが多い。

「火吹竹」という歌は、渡さんがお父さんの詩に曲を付けたものだ。
貧乏詩人高田豊というイメージを抱いていたが、それはどうも違うらしい。

詩人高田豊が詩作をしたのは、二十歳ぐらいの時だけだった。
あの『詭妄性詩集』は、還暦近くになってから、二十歳の頃に書いた詩をまとめたものなので、初老の高田豊がひと晩中何もせずに起きていて火吹竹を作っていたわけではない。
まだ高等遊民に近い生活を送っていた弱冠二十歳の高田豊青年が、悶々と眠られず、思いを小さな竹片にぶつけているのである。

高田豊は、佐藤春男の弟子だった。
山之口貘さんも、同じ時期に佐藤春男の門下生だった。
これは驚きだ。
まるで手品の種明かしを見るようだ。
だから高田渡の世界は貘さんの詩と親和性が高いと言ってしまっては、それは間違いだろうが。
でも、高橋新吉や石川三四郎の名前が出てくるのも、なんだか納得できる。

 →幻泉館日録:高田渡と父・豊の「生活の柄」

 →幻泉館日録:火吹竹 #2

 →幻泉館日録:火吹竹

高田渡と父・豊の「生活の柄」


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高田渡と父・豊の「生活の柄」

NHK教育テレビの高田渡伝で、知らない本がちらりと映っていた。
検索したら、なるほど、これか。

年末の新刊だったようです。
こりゃ注文しておかないと。

 高田渡と父・豊の「生活の柄」


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