CHRONICLES #50 「ジョー・ヒル」はダメな歌?

千本浜 2005年1月8日

ディランの記述によって、ジョー・ヒルが殺人犯にされた事件の概略を見てみましょう。
食料雑貨商とその息子が殺されたのですが、息子の方は死ぬ直前に銃を撃ちました。
ジョー・ヒルは銃創があったので、有罪だとされたのです。
その夜は同じ病院で五人の人物が銃による傷の治療を受けています。
ジョー・ヒル以外の四人はみないなくなってしまいました。
現在の日本の基準からすれば、銃によって負傷したということは必然的に犯罪との関わりを示しますが、20世紀初頭のアメリカでは、そうでもないのでしょう。
事件のあった時刻にどこで誰と一緒にいたのか、ジョー・ヒルはけっして語りませんでした。
一般的には、名を明かしてはならない女性と共にいたのだと信じられているそうです。
事件の翌日に、ジョー・ヒルの親友も姿を消しています。
ジョー・ヒルはあらゆる無産労働者から愛されていたけれど、政治家と資本家はずっと長い間ジョー・ヒルを抹殺したいと思っていた。
裁判以前に、彼の有罪は決まっていたのである。
1915年には、アメリカ全土の大都市で大規模なデモが行なわれた。
ウッドロー・ウィルソン大統領も、ユタ州に事件を再審させようとした。
しかし、ユタ州知事は大統領を嘲笑した(thmubed his nose at the president)。
最後にジョー・ヒルはこう言った。
“Scatter my ashes anyplace but Utah.”
「私の灰を撒いてくれ、ユタ州以外の国中に(ユタ州にだけは撒くな)。」
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その後しばらくして”Joe Hill”という歌が作られた。
プロテスト・ソングに関していえば、わずかしか聴いたことがなかった。
レッドベリの歌”Burgeois Blues”、ウッディの”Jesus Christ”と”Ludlow Massacre”、ビリー・ホリデーの”Strange Fruit”といったようなものだ。
ここに挙げた曲はどれも”Joe Hill”より優れている。
プロテスト・ソングは説教臭く一面的にならないように作るのが難しい。
そこにあるのにまだ人々が気づいていない、自分自身のある一面を示すように作らなければならないのだ。
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ほらほら、ディランは「ジョー・ヒル」をダメな曲だと言ってるみたいですよ。
その心あまりて言葉足らず。
「ジョー・ヒル」はディランにとって、説教臭くて一面的なのね。
それでは自分だったらどう作るのか、ディランは少し書いていますが、また次回。
ただいまp.54です。
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ディランと春一番

70年代の春一番コンサート、風太さんは英語で歌うバンドを認めなかったそうです。
だから憂歌団も最初はダメだったとか。
ディランだけは例外だったと言ってたけれど、ディランの曲を歌うバンドは英語でもOKだったということなのかな。
春一番は日本のウッドストックを目指して始まったそういだけど、心のお手本はボブ・ディランだったんでしょう。
その感じがだんだんわかってきた気がします。
春一番の掲示板に、「純粋に音楽を楽しみに来たんだから政治的な主張はやめてもらいたい」と書いていた人がいたけど、やっぱりそれは見当違い。
ラブソングも、プロテストソングも、歌なんだ。
歌詞なんてどうでもいいと思って作られた歌ばかり聴いていると、そうなっちゃうんだろう。
ウィリアム・ザンジンガーという青年の名前を記憶している人は多い。
金持ちのドラ息子だった。
町の有力者が集まっているパーティで、ウェイトレスをしていた黒人女性を殴り殺した。
そう、ハッティ・キャロルだ。
この曲”The Lonesome Death of Hattie Carroll”を収録したディランのアルバム”The Times They Are A-Changin'”は1964年リリース。
事件が起きたのは1963年。
最新のニュースを歌い込んだものだ。
歌の内容はご存知のように殺人事件そのものよりも、ウィリアム・ザンジンガーに下された判決がわずか6ヵ月の刑期であることを告発している。
実際には刑の執行は猶予されたらしい。
ディランもまだザンジンガーと同世代の青年だった。
こんな不公正が許されていいものか。
ディランの怒りと悲しみは、同時代に向けて歌われたのだ。
この曲は日本でも数多くの人の心を動かした。
こういう内容を、こんなふうに歌っていいんだ。
歌の新しい形が見えたように思った。
ボブ・ディランは「今まで存在しなかった新しいもの」を創造したのだが、それは「フォークソング」の伝統に従うことによって生まれたものだ。
本当は「フォークソング」は「民謡」と書くべきだろう。
つまりディランは「新民謡」のヒーローとして輝いたのである。
60年代の日本の若者の心を動かしたアメリカの「新民謡」は、日本でもフォークブームを引き起こし、歌謡曲の世界を大きく変えることになる。
だが、事件を具体的に歌う、アメリカの「民謡」の手法は漂白されて消えてしまう。
高田渡さんが三億円事件を歌ったり、友部正人さんが連合赤軍事件を歌ったのは、例外的なものとなってしまった。
この国では、差別は常に遥かな国、遠い昔のことのように語られるのだ。
アンネ・フランクやローザ・パークスを学校で教えて、差別は非人道的だと教師は語る。
しかし、自分の娘が在日朝鮮人や被差別部落の青年に恋するのは好まない。
何も変わっていない。

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牧師と奴隷

五黄の寅1950さんから、以前教えていただいた『戯歌番外地 替歌にみる学生運動』にこの歌が載っているよと、また教えていただいた。
早速ヒナのワンダーランドとなっている山脈を崩し、該当の三一新書を発掘した。
おお、確かに出ています。
以下引用。
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12 代々木と奴隷
 代々木がおごそかに 革命を語るとき
 おれたちは腹がたつ そこで代々木が猫撫で声で
 おまちもうすぐだ 革命はやってくる
 統一せ 団結せ
 寝てたら 歴史は勝利する
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下段に解説があります。
———————————————-
12
 六〇年前後、安保ブント結成頃に作られたものと推定される。元歌は、日共の歌声運動でも時々歌われていた。
 元歌「牧師と奴隷」黒人民謡
 牧師がおごそかに 天国を語る時
 おれたちは腹がへる そこで牧師が猫撫で声で
 おまちもうすぐだ 天国へ行く日が来る
 働け 我慢せ
 死んだらあの世で食べられる
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なるほど、民青が歌っていたので、ブントが替え歌を作ったのですね。
六〇年安保、もう45年も前の話になってしまいました。
この本の発行は奥付によれば1970年6月15日です。
 →2004年6月11日付幻泉館日録: 戯歌番外地(1970年)


戯歌番外地

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CHRONICLES #49 空の上のパイ

千本浜 2005年1月7日

ジョー・ヒルの代表曲として、ディランは”Pie in the Sky”を挙げています。
googleで検索すると、どうも”THE PREACHER AND THE SLAVE”という曲のようですね。
「説教者と奴隷」?
 →THE PREACHER AND THE SLAVE
 ♪ Work and pray, live on hay,
 ♪ You’ll get pie in the sky when you die.
 ♪ 働きなさい、祈りなさい、干し草食って生きなさい
 ♪ 死んだらあの世で パイがいただける
上記サイトによれば、この歌は救世軍の賛美歌”Sweet Bye and Bye”の替え歌。
救世軍の伝道を皮肉ったものですね。
魂の救済なんかより、とりあえず胃袋を満たしたい。
救世軍の説教者は、そんな欲求を押し殺して奴隷の思想を植え付けようとしているのだぞ。
林業や建設の現場で働く季節労働者に、この歌を歌ってウケたのでしょう。
私は1946年の食糧メーデーにおけるプラカード事件を思い出しました。
 「朕はたらふく喰っている、なんじ臣民飢ゑて死ね」
名誉毀損によって懲役8ヵ月の判決が言い渡されたのですね。
たとえ事実であっても名誉毀損罪が成立するということでしょう。
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Joe wrote the song “Pie in the Sky” and was the forerunner of Woody Guthrie. That’s all I needed to know.
ジョーは「天国のパイ」という歌を書き、ウッディ・ガスリーの先駆者となった。僕が知る必要があるのは、それだけだった。
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大文字を使って「the Forerunner」と表記すると、バプテスマのヨハネ(John the Baptist)を指します。
ディランにってジョー・ヒルは、クリスチャンにとってのバプテスマのヨハネのような存在だったのでしょう。
この後ディランは、冤罪でジョー・ヒルが銃殺されることとなった殺人事件のことを記述しています。
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ジョー・ヒルとIWW

ジョー・ヒルが活動していた組合は、IWW(Industrial Workers of the World)です。
世界産業労働者組合。
例によって「リーダーズ英和」を引くと、こんな説明があります。
「1905年Chicagoで組織され, 賃金制廃止・産業別組合主義を掲げたが20年に解散」
おお、過激で短命な組合だったんですね。
日本の企業別御用組合と比べると、まったく違う世界です。
ついでにジョー・ヒルも引いてみました。
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Joe Hill (1879?-1915) 《米国の労働運動指導者; 状況証拠のみで殺人犯とされて死刑となり, 死後 労働運動の世界でヒーローになった; 多くの労働歌を残した》
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『ひげよ、さらば』『砂の上のロビンソン』そして加川良さんが歌った「教訓 I」の上野瞭さんがジョー・ヒルのことを書いていました。
 →『ハックルべリイ・フィン』を読む アメリカの貧困
上野さんは2002年に亡くなっていたんですね。
合掌。

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CHRONICLES #48 ディランとジョー・ヒル

千本浜 2005年1月2日

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人生よりも大きな歌を書きたいと思う。
身に起きた変わったことや、見かけた変わったことについて語りたいと思う。
それなら、過去に日常語で語った人達のことをよく知らなければならない。
歌を生み出すのに、先人たちが用いた冷徹な正確さ、それはすごいものがある。
一つの歌を聴いて、君の心が前に飛び出してしまうことがあるかもしれない。
自分の考え方とよく似た考え方をしていると思って。
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流行歌を聴いて、「ああ私のことを歌ってくれてる、そうなのよ、その通りなのよ」と思ったりするのと同じなんでしょうか。
違うのでしょうか。
ディランの話の水準が、よくわかりません。
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僕はある歌を「良い」とか「悪い」というように見たことは一度もない。
いろいろな種類の良い歌があるだけなんだ。
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これはさらによくわかりません。
ディランが「つまらない歌だなあ」と感じた歌がたくさんあるはずだと思うのです。
ある水準を超えた歌のことなんでしょうか。
まてまて、ディランはあまり深く考えない、正直な人のようなので、本当にそう思ってるのかもしれません。
とにかく歌が好き。
でも、自分だったらもっとうまく書けるとか、自分だったらもっとうまく歌えると思ったのかな。
歌の中には人生の真実を言い当てるものがあると前置きして、ディランは”I Dreamed I Saw Joe Hill”という曲のことを語ります。
Googleで検索してみると、正式なタイトルは”I Dreamed I Saw Joe Hill Last Night”のようです。
 →I dreamed I saw Joe Hill last night
ディランはジョー・ヒルが実在の人物だとは知っていたけれど、どんな人なのかまだ知りませんでした。
そこでフォークロア・センターでイジーに尋ねました。
イジーが何冊かパンフレットを渡してくれたので、ディランはセンターのバックルームでそれを読みました。
ミステリー小説のように読んだそうです。
ディランの記述では、ジョー・ヒルはスウェーデンからの移民で、メキシコ戦争に従軍しました。
かろうじて食っていくような生活を送り、1910年ごろ外西部で組合のオルグになります。
資本主義の賃金システムを廃止しようとした、キリストのような人物。
機械工で、ミュージシャンで、詩人。
労働者のロバート・バーンズと呼ばれていた。
ジョーヒルは知ってますが、ロバート・バーンズの方がわかりません。
「リーダーズ英和」にはこう出ています。
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Robert Burns (1759-96) 《スコットランドの国民詩人; 主としてスコットランド語で恋愛詩・自然詩・諷刺詩を書いた; `Auld Lang Syne’, 愛国的な `Scots, Wha Hae’, 魔女伝説を扱った `Tam o’ Shanter’ など》
————————————–
なるほど。
みんなが知っている詩人ということですね。
本筋のジョー・ヒルの方は、冤罪によって死刑になってしまった労働運動家です。
映画化されています。
 →goo映画『ジョー・ヒル』(1971年)
ホセ・フェリシアーノが「ケ・サラ」を歌ってヒットさせたのは、その少し後だったでしょうか。
 →Che Sara’
 MIDIと原詞
 →ケ・サラ
 にしむらよしあき訳詞 quitimeと楽譜
 ♪ いつも思い出すのさ
 ♪ 自由のために死を選んだ
 ♪ グェン・バンチョイ ジョー・ヒル
 ♪ ビクトル・ハラを
 ♪ 決して忘れはしないさ
そう、あのジョー・ヒルです。
私がその名前を知ったのは、映画の主題歌となったジョーン・バエズの歌だったと思います。
ただいまp.52です。
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春よこい

トトロ神社&ヒナのひるね

今日は忙しかったので、もうバテバテ。
とりあえず昨日と今日撮った画像をアップして、お風呂に入ります。
昨日町中の郵便局に行こうとして商店街を通ると、不思議なモノがありました。
トトロ神社?
賽銭箱は新潟中越地震被災地への義捐金箱になってました。
本当にいろいろなことがありました。
台風、震災、大津波、そして戦争。
どさくさ紛れに憲法も変えようとしている連中がいます。
憲法遵守義務がある連中がそれを言い立てるのはひどいなあ。
そして今日はひさびさにヒナのひるねを撮りました。
冬場はサンルームと化す、二階の廊下です。
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まともなブラウザとメーラー

もはや日常生活に欠かせないブラウザ&メーラーですが、私はMicro$oft社のソフトが嫌いです。
使い勝手が悪いし、危険です。
それでNetscape Navigatorの系統を使うことが多かったのですが、今は「Firefox」と「Thunderbird」です。
正式版が出たんですよね。
Internet ExplorerやOutlookの「お気に入り」や古いメールも読み込んでくれます。
そろそろまともなソフトに乗り換えませんか。
→「Firefox」Get Firefox
→「Thunderbird」 Get Thunderbird

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水色

昨夜NHK BS-2で見たライブ番組、UAがアカペラで「水色」を歌っていた。
ひさしぶりだなあ、この歌。
つい自分で歌ってみたくなる。
CDを持っているのだが、発掘が面倒。
どこかに歌詞が落ちていないかしら。
あら、あるものですね。
 →水色
どうも難しい。
ヘタクソだ。
伴奏が欲しくなる。
ストーブを出すためにD-28をケースにしまったのは温度や湿度が云々というより、単にスタンドに立てておくスペースがないからだ。
一五一会ならひょいと吊るしておける。
そのためのハンガーも既に取り付けてある。
ということで、一五一会君登場。
これまたひさしぶりに触ったので、もう何がなんだかわからない。
仕方なくギターの高い方4弦のチューニングでちょいと伴奏。
ギターのコードだと左手が低い音を探してしまうので、弾きにくいことがわかりました。
当たり前だわな。
マジメな開放チューニングに合わせて、練習しよう。
 ♪ わたしは 水色のつばさ おおぞらにひろげ
 ♪ 疲れた とべない日は おおきな木にとまり
 ♪ 愛のことばと かぜのうた あなたにうたいましょう
 

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CHRONICLES #47 歌手ディランから

千本浜 2005年1月1日

すっかり忘れてました。
タイトルに「CHRONICLES #XX」と書き込まずに、ほんの少しだけ読み進んでおりました。
これは「LifeSaver」の記述の後に出てくるのです。
今書こうとして気づました。
以下再掲。
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小さなころに聴いたラジオ番組の話をしていると思ったら、また突然二行空けて、歌作りについて語り始めます。
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自分の歌を書こうなんていつ思いついたのかわからない。自分が歌っているフォークソングの歌詞が世界をどう感じるか決めてくれたのだけど、それに似たようなものを作ることも僕にはできなかった。そういうことはきっと少しずつ起こるものなのだろう。ある日目を覚まして歌を書こうと決めるというものではない。特にたくさんの歌を知っていて、毎日さらに多くの歌を覚える歌手の場合は。
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ボブ・ディランという人は類い稀なソング・ライターとして有名なのですが、どうも自身の認識は少し違うようです。
あくまでも「歌い手」のつもりだったようです。
そして、非常に早い時期から、歌手としての自分の実力に相当の自信を持っていたのですね。
「歌を書こうという機会は、現存するものを、まだ存在しないものに変えようとする時に訪れるものだ」
ディランの場合、何か新しいことを表現したくて、必然的に自分で歌を作ることになってしまったということなんでしょう。
今では当たり前のようになってしまったことも、1960年ごろにはまだまったく存在しなかった。
ボブ・ディランはそれを自分で切り拓くという仕事をすることになるのです。
1962年のデビューアルバム『ボブ・ディラン(Bob Dylan)』では、ディランはまだ「歌い手」です。
ここに書いたような「まだ存在しないものに変えよう」という気持ちを持っていたのでしょうが、本当に新しいものを創造するのは、その翌年のセカンドアルバム1963年の『フリー・ホイーリン(The Freewheelin’ Bob Dylan)』(1963年)だったと言っていいでしょう。
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