よしだたくろう「結婚しようよ」(1972年)

今日は家でこなす仕事がたくさんあったのだが、昨夜熱を出していたので午前中はぐっすり眠って体調を戻し、午後は少し眠って体調を整え……。
あれま、ねたきり中年じゃん。

お天気が良くなってから、スバルの販売店へ行きました。
昨日、リアウィンドーのワイパーからゴムが外れていたのです。
せっかくだから浜を回りました。
夕陽は見えなかったけど、やっぱりいい空でした。
日曜日ほど人がいないけれど、どうも仕事中のおじさんたちが夕陽を見にきていました。
画像を2枚だけアップしておきました。
Yahoo!PHOTOSもフォルダーを分けないといけないな。
[I Love Sunset!] 夕陽が好き!

愛車黒トラ君は、とても気持ちのいい車です。
初めて、運転していて気持ちいいなあと思った車です。
トラヴィックという名前でスバルが販売しているミニバンですが、中身はオペルのザフィーラという車なんです。
それをスバルがチューンナップしているので、めちゃくちゃ走りのいいミニバンです。
貧者のドイツ車。
オルターナティブもいいところですが、お薦め車です。

純正部品を買いに行ったら、ちょいちょいと交換してくれました。
ゴムの付いている「ブレード」という部分。
なるほど、ブレードだわな。
『ブレード ランナー』の「ブレード」です。

そのまま牛乳を買いに大手スーパーを回りました。
ああ、食玩もののCDを見ようとと思ったら、なんだか高校生の集団が大騒ぎしています。
高校の同級生の娘さんが中にまじっていて、こちらに「ああ、☆☆やんだ!」などと大声を挙げるので近づけず。
コージーコーナーがあったので、ケーキを買って帰りました。

充実していたような、いないような外出でした。

夜になって 夏見還さん「還尼抄」で気になる食玩を知る。

> 20世紀漫画家コレクション5「高橋留美子の世界」。
> こたつネコ(しかも錯乱坊つき)のフィギュアがライン
> ナップに入っているのです!

う?む。
こたつネコ欲しい……。
およそギャンブルをしない人間なんで、中身のわからないクジみたいな食玩は好きじゃないのだが、う?ん、欲しい。
しかも錯乱坊つき。

すぐに近所のコンビニに向かったのだが、20世紀漫画家コレクションというものを売っていない。
コンビニのチェーンによるのか、地域が限定されているのか。

代わりに、CD付きお菓子(というよりお菓子付きCD)を買ってきた。
(全然代わりになっていない。)

渡辺真知子「かもめが翔んだ日/唇よ、熱く君を語れ」
よしだたくろう「結婚しようよ/旅の宿」

真知子さんのCD買ったの初めてです。
こんな形で申し訳ない。
それと、初期拓郎ファンなんで。

J’s pops

「結婚しようよ」(1972年)は、もう語ることもないほどの有名曲。
これで大ブレイクして、日本の歌謡界が変わっていく。
加藤和彦さんがバックで12弦ギターを弾いていた……って、どこかで書いたかな。

歌詞が新鮮でしたね。
僕の髪が肩まで伸びても、君の髪も伸びているから同じにはならない。
アキレスは亀を追い越せないのである。
そうじゃない。

結婚という制度に何の疑念も抱かず、そんなふうに歌える拓郎さんは、当時の「フォーク」としては新鮮だったのではなかろうか。
そういえば教会での結婚式というのも流行ったんですね。

のどかな県のんびり市には、ひそかな名所があります。
高速道路のインターチェンジの近くに、大モーテル街があるのです。
週末には首都圏からもお客さんがおしよせるようです。
山本晋也さんの「おとなの社会学」(だったっけ?)の取材が何度も訪れたところなので、テレビでご覧になった方も多いでしょう。

そのもう少し山奥にはゴルフ場がいくつもあって、山を殺してくれました。
保水能力を失って、麓の村では雨が降るとすぐに川があふれるようになってしまいました。

モーテル街とゴルフ場の間には禅宗のお寺があるようで、道路沿いに大きな看板を立てています。

「莫妄想」

中国唐代の禅僧・無業禅師の言葉だそうです。
人間がいくら考えても分からない問題なんか考えるなという意味らしいです。
でも、どう考えても「妄想するなよ」としか読めません。

ええっと、教会での結婚式です。
80年代のことですが、この一大モーテル街に至る道路沿いに、教会が建てられたのです。
白くて、妙に派手な教会。
不思議だなあと思っていたら、それは結婚式場でした。
なぜか韓国朝鮮の民族衣装を着ている方が外の庭に集まっているのをよく見かけました。
私が通っていた高校もその近くにあります。

その怪しい教会は、今はもうありません。

夏見還さんより

で、ぐずぐず言ってたら夏見還さんが画像をアップしてくださいました。
いただきました、ありがとうございます♪
上の画像が、夏見還さんからいただいた、誕生日のプレゼントです。

【追記】
 何度も書き込みでハネられた。
 試行錯誤の末、画像のファイル名がいけなかったようだ。
 「j」「pop」「cook」「ies.jpg」は不可でした。

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五つの赤い風船『ゲームは終わり』(1972年)

【追記】
 みなさま方、お祝いをありがとうございます♪
 近年まれなはっぴいばーすでいとなり、感謝しております。

誕生日おめでとう!

はは、オレにです。
まっつぁんにもです。
はまだくんやみつえちゃんにもです。
このあたり、お誕生日ラッシュなんだよね。

いい歳してめでたいか?
いい歳だからめでたいんですよ。
んで、今年はちゃんと言わないと。
歳くった幻子心母に。
産んでくれてありがとうって。

【ここから11月3日の話】
明仁さんのお父さんが裕仁さん。
裕仁さんのお父さんが嘉仁さん。
嘉仁さんのお父さんが睦仁さんという名前でした。
睦仁さんは亡くなってから諡(おくりな)され、在位期間の元号を採って明治天皇と呼ばれています。

この名前はなんとなくgoogle検索でヒットしたhttp://ja.wikipedia.org/で調べたものです。
そうそう、私が投げ出したwikiです。
参加者がどんどんページを作って書き換えていくという面白いシステムなのですが、なにぶん友達がいないもので、幻泉館本館のwikiは開店休業のまま消えてしまいました。
遊んでみたい方はhttp://gensenkan.hn.org/~saturate/WalWiki2/wiki.cgiに残骸が残っているので、存分にいじってください。

それで、この睦仁さんのお誕生日が1852年11月3日(嘉永五年九月二二日)でして、没後、その日の呼び方がいろいろ変化しました。

天長節:1873(明治6)年?1911(明治44)年
    (1872(明治5)年までは太陰暦で9月22日)
明治節:1927(昭和2)年?1947(昭和22)年
文化の日:1948(昭和23)年?

ただし、「文化の日」は明治天皇の誕生日を祝う日ではありません。
「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日です。
日本国憲法公布の日です。

もちろん憲法記念日は5月3日ですが、それは施行の日です。
11月3日からちょうど半年後だったから、5月3日が憲法記念日になったのですね。
形式的には明治憲法の改正ということで日本国憲法が制定されたのですが、公布の日にわざわざ明治天皇の誕生日を選んだなんてところがおもしろいです。
祝日に公布したなんて、変じゃないの?

いずれにしても、日本国憲法の誕生を祝ってくださいませ♪
日本国憲法の誕生

で、11月3日は国民の祝日だったけど、幻泉館主人は非国民なので仕事なんぞしてました。
国民の祝日とは、国民の祝日に関する法律 (祝日法)で定められた日です。
この法律は国民主権となった日本国憲法の下で1948年に制定されたもの。
だから「祝祭日」という言い方は、今では不正確です。
「祝日」しかないのです。

1948年以前は、「国家の祝日」と「皇室の大祭日」を併称して「祝祭日」と言いました。
祝日は臣民が祝わなければならない日。
祭日は皇室の行事がある日。

広辞苑によれば、1927年以後の祝日・準祝日として四方拝(1月1日)・新年宴会(1月5日)・紀元節(2月11日)・天長節(4月29日)・明治節(11月3日)。
大祭日として元始祭(1月3日)・春季皇霊祭(3月21日頃)・神武天皇祭(4月3日)・秋季皇霊祭(9月23日頃)・神嘗祭(10月17日)・新嘗祭(11月23日)・大正天皇祭(12月25日)があったそうです。

大正天皇祭というのは、命日ですね。
だから昭和元年は1週間しかなかった。
明治天皇の誕生日、昭和天皇の誕生日が祝日として生き残っているのだから、大正天皇の誕生日も適当な記念日として、国民の祝日にしてもらいたいものです。
あれ?
何月何日?

googleで簡単に見つかりました。

 大正天皇略年譜
 誕生:1879(明治12)年8月31日
 立太子:1889(明治22)年11月3日
 即位:1915(大正4)年11月10日
 崩御:1926(大正15)年12月25日(48歳)

8月31日!
私の場合は夏休み最後の日という大うんじゃらげイメージがあります。
が、2学期制なんぞが広まってきて夏休みが8月中に終わってしまう学校が増えたようなので、やっぱ祝日にしてもよろしいんじゃないでしょうか。


祝! 『ゲームは終わり』3枚組み復刻!

amazon/avexによる『ゲームは終わり』の復刻盤情報を書こうと、amazonの該当ページをチェックした。
すると嬉しい告知が。

> 『ゲームは終わり (解散記念実況盤)』は当初2枚組とアナウンスしておりましたが、3枚組でリリースすることに決定しました。

おお!
斉藤哲夫さんの「吉祥寺」が入るか!
このライブの「吉祥寺」、好きなんです。
「曲目は決定次第、このページでお知らせします。もうしばらくお待ちください。」
これはおそらく岡林信康さんと交渉中なのではあるまいか。
『関西フォークの歴史』のシリーズや『うた・復権 はみだし歌番組』が完全に岡林信康をカットした形で復刻されたので、今回も岡林抜きの可能性が高い。
それでも、他の曲が入ると入らないでは大違い。

冒頭は風船がアメリカに行った時のスライドを上映している模様から始まります。
長野隆君が弁士になっておもしろおかしく解説し、それにフー子ちゃん(藤原秀子)の歌う「私は地の果てまで」がかぶさっていきます。
このアルバムの1枚目はいいですよ?。

どうか完全復刻となりますように!

五つの赤い風船『ゲームは終わり(解散記念実況盤)』
12/10発売予定 3枚組 3,000-
ゲームは終わり
ディスク: 1
1.私は地の果てまで
2.ふる里の言葉は
3.美しいものは
4.そんな気が…
5.まぼろしの翼とともに
6.ささ舟
7.もしもボクの背中に羽根が生えてたら
8.殺してしまおう

ディスク: 2
1.おとぎ話を聞きたいの
2.どこかの星に伝えて下さい
3.血まみれの鳩
4.ボクは風
5.遠い世界に
6.これがボクらの道なのか

ディスク: 3
1.あいさつ / 山本コウタロウ
2.吉祥寺 / 斉藤哲夫とアーリータイムス・ストリングスバンド
3.その気になれば / 中川イサト
4.こがらし・えれじい / 加川 良と西岡たかし
5.追放の歌 / IMOバンド (長野 隆・太田ぼう・金森幸介・上田康彦・秋山たかし)
6.ランブリングボーイ / 岡林信康・西岡たかし・加藤和彦・中川イサト・長野 隆
7.アイシャルビーリリースト / 岡林信康・西岡たかし・加藤和彦・中川イサト・長野 隆
8.時は変ってしまった / 全員合唱
9.遠い世界に / 全員合唱
10.これがボクらの道なのか / 全員合唱

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シングアウト「涙をこえて」(1969年)

暑かったですね。
すごくいい天気。
これはいい夕陽が見えるとウキウキしながら畑仕事。
法事があったので、2週間分の生ごみとお蕎麦屋さんのダシかすはポリバケツ2杯分たっぷりありました。

小松菜かなんか蒔いたあたりの土がすごかった。
小さくぴょこぴょこ蠢(うごめ)いてる。
え?
これが、小さなコオロギがたくさん跳ねてるんですわ。
びっくりしました。

狗尾草(ヱノコログサ)が伸び放題なのに、鎌を忘れてきてしまった。
手で抜いて回ったんだけど、トレーナーやズボンにびっしり付いて、これもすごかった。
晴れて急に暑くなったんで、妙に生命活動が活発なんだな。

大菜園(見栄張ってます、すんません)から家に帰って、さてのんびり浜にでも出ようかと思っていたら、幻子心母が「ガス展」に連れていけと言う。
あら、聞いてないよ。
聞いてないけど、しょうがない。
あたふたとガス会社のイベントに行ってきて、浜に向かって車をとばしました。
途中の夕陽がきれいだったなあ。
ただ、写真に撮るには半端な建物が建っている道だったので、海に行けば大丈夫だと思っていたのだ。

途中で後ろに付いていた車が、どうものどかな県立大学のたえさん(仮名♀二十代)っぽかった。
お?? 何やってるんだ??

ところが、浜に着くと下の方に雲が出ていて、太陽が隠れてしまっていた。
あらま。
先週と同様に、堤防には人がたくさんいた。
お日様は雲に隠れたけど、それでもみんな空を見ている。
なんだろうな、この感じが好きなんだな。
みんな邪念がないのね。
ただ空を見てる人たち。

本当はヤフオクで落札した300mmのレンズを試したかったのだが、今日は使わず。
帰りがけに、森田童子のような後ろ姿の人が空を見ているところを撮った。
日が沈んでも、じっと空を見ている。
本当は何か一所懸命に考えたり、悩んだりしているのかもしれない。
こちらには、空を眺めていたいのだということしかわからない。

ありがとう、夕陽、また来週!

sunset 2003 Nov. 2nd
Yahoo! PHOTOS更新しました。


NHK BS-2で「ステージ101」の同窓会番組みたいなのをやっていた。
『ヤング101 復活コンサート』
シアターコクーンでやったのか、そりゃ変だ。
ま、NHK近いからな。

高校時代はほとんどテレビを見ていなかったはずなのに、なんだか知っているメンバーが多い。
「涙をこえて」
ああ、かぜ耕士さん、中村八大さんの曲。
永六輔さんじゃないのがポイント。
シング・アウトの。
あとでピコ(樋口康雄)出てくるんだろうか。

え? このオジさん、ワカ(若子内悦郎)なの!?
ワカとヒロのワカ?
これはちょっとショック。
ああ、太田裕美さんはね。

若者に説明しておくと、NHKが作ったスクールメイツみたいな集団。
っつっても、何の説明にもなってない。
私は学生時代にかなり若く見えたので、卒業するころでもトレーナーなんか着ていくと、先輩に「お、スクールメイツ!」などとからわかれました。
どうして先輩がいるのかというと、ずいぶん長いこと学部にいる先輩が多かったんです、うちのサークルは。
やっぱり何の説明にもなっていない。

ヤング101をかっこいいと思ったことはないんですよ。
(東京キッドブラザーズをかっこいいと思ったこともないけど。)
ただ、あんまりイヤだなとも思わなかった。
自分より少し年上のお兄さん、お姉さんがたくさん出てくるんで、それが楽しかったのね。

あ、西玲子さん!
ああ、この人好きでした。
なんだろう、どこがだろう。
うわっ懐かしい!
学芸会みたいだけど、楽しい。
いや、我ながらよく覚えてるもんだ。
西玲子さんは、昔の面影そのままのなのが嬉しいな♪
女性は下腹に来るんだなあという、失礼な感想。
他人様のことは言えないでしょ。

と、こんな調子でビデオにとっておいたやつをこれから見ます?。


【幻泉館本館 2003年2月12日付日録】より、蔵だし。
本当は2/9(日)の夜中に書いてます。

夜9時よりNHKスペシャル『こども・輝けいのち(1) 「父ちゃん母ちゃん、生きるんや」?大阪・西成 こどもの里』。
大阪西成区(いわゆる釜ヶ崎)にある民間福祉施設「こどもの里」で暮らす子どもたちのドキュメンタリーです。
これだけ金と時間をかけて長期取材ができるのも、NHKだからだなあ。

『じゃりん子チエ』が現実だとしたらチエちゃんはすごい不幸な子だよなあと思っていたのですが、いや事実は小説より奇なり。
入院した父親の世話をやく8歳の香菜ちゃん、もうナミダものです。(お母さんはいません)
15歳博君の母親は完全なアル中、弟妹の世話をしながら、博君は母親をひきとって一緒に暮らそうとする。(お父さんはいません)
あれ、言葉にしてしまうとあんまり感動的じゃないな。
「家族」の回復をテーマに設定した制作者側の意図が丸見えになるからだろうな。
けなげな子どもたちの映像はすごい説得力があるんですけどね。
ホントのことを言うと、釜ヶ崎の暮らしそのものの映像が少ない。

同じように「寄せ場」と呼ばれ、一見同じように見えるのだが、東京の山谷ではこういう「家族」の回復はないだろう。
明日を信じることができる子どもたちの姿がない。
山谷では徹底的に独りである。
だからNHKスペシャルの映像になることもおそらくない。
十年前の知識なので、今どうなっているのかは知らないのだが。

もう一つ。
「こどもの里」はキリスト教団体(聖イグナチオ教会?)の施設です。
山谷でもプロテスタント、カトリックそれぞれの教会があり、福祉活動を行なっています。
仏教・神道の団体による活動はほとんどありません。
なぜなんでしょう。
悲田院・施薬院なんてのを、日本史の授業で習った記憶がありますがね。
ああいうのは仏教の伝統にはならなかったんでしょうか。
儲からないとダメなんすかね。

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五島勉『ノストラダムスの大予言』(1973年)

私は夢や幻を語ることはあるが、怪力乱神は語らない。
幽霊などいない。
死んだ者に会いたくなっても、誰ひとりとして会いにきてはくれないのだから。
思い残しはいっぱいあっただろう?
言いたいことがあっただろう?
残された者も、言いたいことがある。
聞きたかったこと、謝っておきたかったことがたくさんある。
でも、死んでしまったらそれはもうかなうことがない。

CD『Glory Hallelujah 西岡恭蔵自選Best』には、大塚まさじさんと友部正人さんの「ゾウさんへ」が書いてある。
「たまには出てきて」とか書いてあるのがおかしい。
そう、たまには出てくればいいのに、みんな。

死んだらそれで何もなくなってしまうというのは、ずいぶんつらいことなんだよね。
霊が存在するのだと考えた方が、ずっと気持ちが楽になる。
あなたが幽霊に出会ったことがあると言っても、それは否定しないよ。
きっとウソではないのだろうし、あなたは運が良いのかもしれない。
でも、私には、幽霊は存在しないのです。

オウム真理教元教祖結審。
判決はだいぶ先になるだろうが、その結果は残った宗教団体の活動にはたいした影響を与えないだろう。
死刑判決が出ても、それは「法難」にすぎない。
生き延びてまた妙なことをやらかしてくれるより、さっさと「殉教」してくれた方が、教団運営者には都合がいいのかもしれない。

信者たちが教祖の面をかぶって選挙運動をしているのを、西武新宿線の駅前でよく見かけた。
最初はみんなギョッとするのだが、苦笑している者が多かった。
だって、あれで投票する人がいるとは思えない。
今思えば、オウムの連中はそういう「普通の感覚」を失っていたのだ。
笑えないよ。
「象牙の塔」にこもっている権威ある方々も、そんな「普通の感覚」がなくなっているようだから。

それから少し経ってだろうか。
高円寺駅を出ると、コンサートの客引きがいた。
どこかで聞いたような電子音楽をひゅーひゅーと流し、画板のようなものを抱えた若者がいる。
コンサートに行かなくてもいいから、胸の前の板に載せた本をもらってくれと言う。
「はい、ありがとう。」
薄いパンフレット類には目もくれず、なるべく立派な装丁の本と、A5判の機関誌らしい雑誌を数冊ひっつかんでいく。
「あ。それは……」
「ありがとう。」
おばさん体質なので、オウムの下っ端なんぞには負けない。

その夜、下宿で一通り目を通した。
アホだなと思った。
「最終解脱」はどう読んでもインチキだ。
これはひっかかる方が悪い。

ただ、ヨガの方法が写真入りで解説されているのは、ウケるだろうなと思った。
本に書かれたように、つまりマニュアルどおりに行動していれば、それなりの効果が感じられる。
自分の頭で考えることをしないのなら、安直に「修業」できていいのだろう。

その本は不思議に捨てなかった。
サリン事件当時、探したら簡単に出てきた。
あの機関誌は名前を変えて、まだ出ていた。
問い合わせると、八重洲ブックセンターや書泉ではバックナンバーもまだあるという。
あわてて買い揃えた。
あのアホな、でも善良そうな信徒たちがどうしてそんなことになったのか知りたかったのだ。

答えは出ていない。
集めた資料は段ボール一箱分にまで減らして、放ってある。
事件をエスカレートさせた責任の一端がテレビにあることは確かだと思う。
ただ、不謹慎な言い方だが、あれだけテレビがおもしろかった時期もない。
幹部がテレビ出演した後で逮捕されたり、刺殺されたりしているのだ。

95年当時、まだインターネットは普通の家庭ではなかなか繋げないものだった。
今で言うプロバイダも少なく、繋げたとしても従量制料金が重くのしかかったくる。
のんびり市では繋がらず、県庁所在地のどかな市まで電話をかけなければならなかったのではないか。

私はいわゆるパソコン通信を始めてから十年ほど経っていた。
そのころは、NiftyServeでオウムに関する意見交換を眺めていた。
舞台は市民運動に関するフォーラムがメインだったろうか。
「猫が好き♪」というハンドルの論客がいて、私のお気に入りだった。
その前には原理の連中、統一協会とバトルを繰り広げていた人物だ。
原理の方には「伝道師」という人物がいた。
彼らは今も活躍しているのだろうか。

当時、既成宗教団体はオウムを宗教ではないと黙殺し、真剣に論じることはあまりなかった。
「猫が好き♪」氏はその点において既成宗教団体を批判した。
オウムは宗教団体である。
それも、この事件で世間から叩かれる中を生き延びることができれば、宗教団体として成長するのではないかと論じていた。
カルトもまた宗教。

オウムはあちこちからいろいろなものをとってきて作った宗教である。
原始仏教から直接学ぼうとしたのは、アメリカ西海岸からの逆輸入思想である。
それでいてキリストになっちまうんだから、噴飯ものだ。
ところが、そのがらくたみたいな教義と、本当の宗教とされる教義の境界は、実はかなりあいまいなものではないか。

オウムの同調者であるという間違った非難を受けて大学の職を追われた島田裕巳さんは、たとえがらくたのようなものであっても宗教は宗教であると考えていた。
それは正しいと思う。

あまり言及されることがなかったが、高橋和巳『邪宗門』はオウム事件の時にもっと論じられるべきだった。
この小説については、またいつか書こう。

オウム真理教を生んだものについて、少しふれておく。
直接的には「ムウ」のような雑誌。
そしてもっとずっとオウム真理教に影響を与えたのは、テレビのオカルト番組だ。
実にばかばかしい、本当にがらくたのような番組。
あるプロデューサーの名前を思い浮かべることができる。
彼にオウム真理教事件の直接的な責任はないのだが、かつてオウムの元教祖が門を叩いた他の宗教団体ではなく、そんなくだらない低俗超能力・UFO・心霊番組が、オウムの父であり、母である。

ユリ・ゲラーの初来日は1974年。
これでスプーンを曲げてみる子供が日本にたくさん出現した。
(もったいないなあ)
その前年に出版されたのが、おそらく戦後最大のトンデモ本、『ノストラダムスの大予言』である。

ここまで書いてきて、実にばかばしくなった。
論じるほどのものではないのだ。
雑誌記者が、おもしろい企画だと思ってでっちあげた話を真に受けて、本がバカ売れしてしまっただけの話だ。
他のこと書きゃ良かった。
音楽出てこないし。

ええい、見つけたぞ。
『ノストラダムスの大予言』は翌年1974年に映画化されています。
舛田利雄監督。
『日本沈没』に味をシメた東宝が作りました。
主演はあの丹波哲郎さんです。
音楽が富田勲さん。
『月の光』や「きょうの料理」のテーマソングばかりじゃなくて、こんな仕事もしてるんですね。
シンセサイザーがひゅーひゅー鳴ってるという音楽です。
そうです、高円寺で私が耳にしたオウムの天上音楽は、このマネ。
やっぱり『ノストラダムスの大予言』がオウムの親だったという、いいかげんなオチでした。
ごめんなさい。

「1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってくる」
で、降ってこなくてどうしたんだっけ、五島さん。
ノストラダムスの大予言

【追記】
楽天広場掲示板の、プロバイダによる書き込み制限を解除しました。
楽天登録ユーザ以外の方、画像を貼り付けたい方は幻泉館掲示板へどうぞ。

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キース・ジャレット『ケルン・コンサート』(1975年)

高校時代、家の近くにレコード屋さんができた。
これはすごい快挙だった。
その時の嬉しさは、都会育ちの人にはわからないだろう。
だって、周りはたんぼしかなかったんだから。

幼稚園の時にここに引っ越してきた。
なぜか二つの市立中学校がすぐそばに建っていたのだが、他にはほとんど何もなかった。
あまりの寂しさに、家から見える富士山を私は薄紫色で描いた。
それから十年近く経って、田園の中に郊外型の大型レコード店ができたのだ。
高価なオーディオ機器も展示してあって、夢のようだった。

のんびり市の説明を少ししておくと、東京から約120km、東海道ベルト地帯なので、まずまず栄えた町である。
これならべつにわざわざ「のんびり市」などと書かなくてもすぐわかるから実名を書けばよさそうなものだけど、若干事実を曲げて説明することもあるのです。
よく言えば私の「イーハトーボ」にしたいからです。

幻泉館主人は日ソ国交回復の年、スターリン批判の年、ハンガリー事件の年に生まれました。
もちろん生まれた本人はそんな出来事などまったく知りません。
のんびり市の下町、日本で一番重要とされる幹線道路沿いにあった伯母の家で生まれました。

当時はその国道を市電が走っていました。
道路の反対側を少し行くと一級河川が流れていて、川の向こうには小さな山があります。
標高193m、「一休さん」と覚えます。
山というより、丘ですね。

うっすらとした記憶ですが、小さいころ父と母に連れられてその山に登ったのを覚えています。
何故かその頃、渡し舟がありました。
途中で疲れて歩くのがいやになり、二人の間で手を持ってもらい、ぶらさがったりしたのを覚えています。

その山全体が市の公園なのですが、その山の頂上に、やはりどういうわけか大宇宙教といったような名前の宗教団体が勝手に天文台を造ってしまいました。
テレビで砂の嵐を見せて、「ハイ、これが人工衛星!」などと怪しい説明をしていました。
かわいそうなライカ犬は既に消滅し、若き空軍少佐ユーリ・ガガーリンが搭乗していたころでしょう。
天文台の隣には、本当にごくごく小さな動物園もありました。

伯母の家にはもちろん上水道が通っていましたが、なぜか共同井戸も使っていました。
今夜はカレーライスだというような時、つまり生水を飲む時は井戸の水を使いました。
富士山の雪解け水ということでおいしかったのでしょうか。

市電(チンチン電車)も、渡し舟も、天文台も、共同井戸も、今はありません。

60年安保のころでしょう、小さな幻泉館主人(かわいい♪)は、近くの駄菓子屋「やなぎや」さんに行くのが大好きでした。
駄菓子にはあまり興味がないのです。
おそらく売れ残って返本となった月刊雑誌の付録のマンガ本が、新聞紙で作った袋に入れられていて、クジのように自分で選んで買うものがあったのです。
これは何と呼べばいいものなのでしょうか。
袋物……じゃないよなあ。
本当に三つ子の魂百まででして、おかげで今でも半端な本や雑誌に埋もれて暮らしています。

まだ幼稚園にも行く前なので完全にオミソなんですが、地域のガキ大将が面倒を見てくれました。
元号は使いたくないのですが、昭和三十年代のガキ大将はみんなの遊びを考え、ルールを作り、そしてちびっ子の安全を配慮していました。
威張るだけの努力をちゃんとしていたのです。

テレビの台数も少ないころ、近所の人たちがみんな一軒の家に集まってわあわあ言いながら放送を見たそうです。
私は、それは覚えていません。
家に初めてテレビが来た日は覚えています。

あのころの親父様は、今の私よりずっと若かったのだな。
思えば、あの頃の親父様はいい笑顔をしていました。
あの、無法松の坂妻の笑顔。
昔の日本人の、庶民の笑顔。
映画『戦場のメリークリスマス』のビートたけしや、『異人たちの夏』の片岡鶴太郎は、その笑顔を出そうとしたのでしょう。

幻泉館の近くには日本で最も重要とされる国道が走っている。
私が小さな頃育った伯母の家の近くに走っていた幹線道路が、やはりこちらに移ってきたのである。
地元の人たちは今でもこの幹線道をバイパスと呼んでいる。
70年代に建設された「バイパス」だったからだ。
バイパスからさらに山側に入ると、60年代に建設された高速道路が走っている。
伯母の家は川や海が近かったが、今の幻泉館は山(丘じゃない本当の山)が近い。

私が高校生の時はバイパスがまだ建設中だった。
水田も残っており、ガランとした風景の中を広いバイパスが通っていた。
全線開通はしていなかったが、幻泉館付近では道路部分が完成して、車も通行していた。
ただ、側道や中央分離帯はまだ手付かずだったので、適当なところで横断することができた。
地域の県立進学高も川の側から山の中に移転していた。
私はこのバイパスをいいかげんなところで横断して高校に通っていた。
今は絶対に渡ることができない場所を、のんびり横断していたのである。

高速道路を使ってやってくる観光客目当てに、広い道路端で西瓜を並べて売ったりしていた。
中古のパチンコ台なんかも並べてあった。

学生時代、短期間だが測量のアルバイトをしたことがある。
早稲田鶴巻町あたりの、つまり下宿の近所の区画整理が現場のはずだったのだが、足立区の方へも連れていかれた。
がらんとした殺風景な土地を環状七号線が通っている。
同じ道路なのに、高円寺あたりの風景と比べると本当に殺伐としていた。
故郷の建設中バイパスに似ているなと思った。

幻泉館近くの「バイパス」は今では、この道端でスイカを売っていたと言っても信じてもらえないほど、郊外型の大規模店舗が軒を並べている。
家電・パソコン、CD・楽器、ファミレス、ジーンズ・礼服、カラオケ、書籍 etc…
高校生の時、つまりまだ道端でスイカを売っていたころに、そのレコード屋さんは他に先駆けて郊外型の大規模店舗を造ったのである。

当然のことだが、そのレコード屋さんにはよく通った。
(ずいぶん長い前置きでしたな。もうそんなに書けない。)
ここで、とにかくレコードを一枚一枚見ていたのだ。
それも、日本盤は高いので、妙に安い輸入盤をじっくりと見た。
輸入盤なら千円ぐらいからあったので、毎月買うことができた。

ただ、シュリンク包装してあるので、試聴することができない。
流行モノの新譜はさすがにちょっと高い。
まるで知らない名前のポップシンガー、カントリー&ウェスタン、ジャズ、こんなところを怪しげな英語力で解読して、勘を頼りに買うのである。
値段を考えると、結局はジャズが無難だということがわかった。
マイルス・デイビスのレコードはこうやって買ったものが多い。
50年代の名盤である。
ウェイン・ショーターが参加したような新しいものは、まだ高かったのだ。

日本の歌謡曲がニューミュージックと呼ばれるようになると、かつてフォークと呼ばれた音楽は輝きを失った。
僕はジャズのレコードばかり買うようになり、早く東京に出たいなと思った。

キース・ジャレットスイングジャーナル社が創刊した雑誌「アドリブ」の創刊号はマイルス・デイビスの完全ディスコグラフィーが売り物で、まだジャズ雑誌と言っても良かった。

“CIRCLE”では前衛的ジャズという印象だったチック・コリアがRETURN TO FOREVERというグループを結成して、同名のアルバムを発表した。
例の1972年である。
とにかくNHKの番組のバックにはよく流れていた。
「永遠回帰」とはまた妙な名前を付けたものだ。
「リターン・トゥ・フォーエヴァー」の第一アルバムは『かもめのジョナサン』とイメージが重なるのだが、それも故なしではない。
導師グルがいて弟子がいる、あのオウム真理教の好んだ戯画をどちらも描いているのだっから。

70年代初頭に、このチック・コリアがECMというレーベルから出したアルバムで時代を席巻するのでありますが、同時期にキース・ジャレットもECMからアルバムを発表しました。
『フェイシング・ユー』(1971年)
『ソロ・コンサート』(1973年)
これがすごかったんですね。
ただ、高かった。
3枚組みではとても買えないんです。

ところが、1975年、さらに『ソロ・コンサート』をもっとずっと聴きやすくしたような2枚組みアルバムが出ました。
かなり早い時期に安い輸入盤を見つけて、買いました。
これがあの『ケルン・コンサート』(1975年)。
聴きやすいどころじゃない、あちこちでやたらに流れる、超有名アルバムになってしまいました。
なんだかフォーク・ロックみたいなフレーズが繰り返されたり、あの冒頭のアレ、FMの番組のテーマになったりしましたね。

そうだ、『ケルン・コンサート』は井の頭のアパートで聴いていたのだ。

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岡林信康「山谷ブルース」(1969年)

avex/amazonのURC音源復刻盤は岡林信康の曲をすべて削除した形だったので聴く気をなくし、積んだままになっている。
岡林本人がURCから版権を取得し、収録を拒否したようである。
それはそれで一つの見識だが、avex/amazonはもっとちゃんとした説明をすべきである。

10月5日付日録に書いたように当時の音源は苦労してかなり揃えたのであるが、私が死蔵していてもしかたがない。
出してくれよ、岡林さん。

私は少し遅れてきた少年だったので、岡林信康を聴いたのはレコードだけ。
既に「はっぴいえんど」をバックに従えてからだ。

「はっぴいえんど史観」から見れば岡林はロックの乗りじゃないどうでもいい歌手なのだが、そりゃ当たり前だ。
エンヤトットなるものを「発見」し、美空ひばりに共感する岡林は元々ロックなんて歌ってないんだから。

ギター1本でAmをかきならして歌う姿は、場末の流しみたいに見えるだろう。
「山谷ブルース」(1969年)など、演歌にしか聞こえないんだろう。

 ♪ きょうの? 仕事はつらかった
 ♪ あとは? 焼酎を あおるだけ

「働く俺達の世の中が きっときっと来るさそのうちに」などという最後の部分は、何を言っているのかわからないかもしれない。

きつくて危険で汚い労働現場からは徐々に日本人の姿が減っている。
わざわざイラン人やパキスタン人に連帯したいなどと、あんたは思っていないんだろう。
大新聞社が出している雑誌の広告の地口よろしく、「イランに核は要らん」などとはしゃいでみせるぐらいの認識だ。
周辺部を作り出したからこそ、日本は繁栄していられる。
自分の繁栄を守るためにはそれが正しい態度だろうし、ブッシュに尻尾も振ってみせる。
ずいぶんいやらしい書き方になってしまったので、この辺でやめておこう。

「山谷ブルース」「手紙」「チューリップのアップリケ」。
暗い歌である。
吉田拓郎さんのドキュメンタリーには「タムジン」こと田村仁さんが出てきて映像を撮っていた。
あの番組はタムジンさんが準主役だったのだ。
まだ拓郎さんがオールナイト・ニッポンをやっていた時(パックかもしれない)「手紙」のことを、「タムジンがギター弾いて泣きながら歌う歌だ」と言っていた。

初期の岡林、暗い歌が多いのである。
差別に対する憎しみと悲しみがナマの形であふれ出た歌だから。
ところが、この歌を歌っていたころの岡林さんは、不思議に明るいのだ。
皇室一家をおちょくった「ヘライデ」や権威・権力に対する反発「くそくらえ節」「がいこつの唄」、屈託なく明るい。
映画『無法松の一生』(1943年)で坂東妻三郎が見せる、日本の庶民の笑顔。
あれを思い出す。
「友よ」をなんのてらいもなく歌えた時代を私は知らない。

今私は楽天広場で「懐かし屋」さんみたいになってしまっているが、本当は懐古趣味でこんなことばかり書き始めたのではない。
一つのきっかけは、『一九七二』という本にある。
以下、本館日録2003年6月4日付日録から自家引用。



日曜日の毎日新聞書評欄に出ていた『一九七二』がおもしろそうだったので、購入。
まだ読み始めたばかりだが、確かに面白い。

一九七二
『一九七二』
坪内祐三著
文藝春秋社
定価:本体1800円+悪税
四六判上製 本文413p
2003年4月25日発行

著者の坪内祐三さんは私と同世代。
1972年には中学1年生から中学2年生、私は中学3年生から高校1年生という年齢である。
このぐらいの年齢の時には、ほんの少しの年齢差がかなり大きく感じられるものだ。
一つ一つの事件に関してはだいぶ感じ方が違かったことだろうが、後付けの知恵で語る時はやっぱり視点が近しい。

目次を辿ると、「日活ロマンポルノ」、野坂昭如の「四畳半襖の下張り」裁判、連合赤軍事件、『ヤマザキ、天皇を撃て』、ロックの時代の幕開け、『ぴあ』の創刊、田中角栄の登場、雑誌『世界』とまあ、ツボにはまりまくり。
わたしゃつくづくサブカルチャーのヒトなんだわなあ。

雑誌『諸君!』に連載されたものだそうだが、全然知りませんでした。
しょーもない雑誌だけど、中にはおもしろい記事があるのですね。

さて、少し読み進めて。
この著者は1972年が時代の転換点であるという認識の下に、1972年の文化現象を陳列して見せてくれている。
のだが、何か欠けていないか?
私がいいかげんな高校受験を過ごした年。
札幌オリンピック、連合赤軍事件……。
雑誌『終末から』は1973年か。
雑誌『ガロ』はどうだろう。
まったく触れてないかな。
ああ、音楽状況、「はっぴいえんど」「頭脳警察」「キャロル」には触れているが、やっぱり何か違う。
今『ロック画報』や『コレクターズ・マガジン』で学習する若者たちに似ているなあ。



読み終えての結論は、やっぱり違うというものだった。
竹内さんは時々自分の生活からのエピソードを書いているのだが、資料に頼った部分にはやはリアリティがない。
1972年が転換点であるということに異論はないが、「社会学的アプローチ」が正しいかというと疑問だ。
これが歴史になってしまうということなのか?
なんだか自分が生きていた事実が否定されたような気がした。
別に歴史に名を残そうなどとは思わないが、いなかったことにされるのはちょっと寂しい。

少なくとも連合赤軍関係は、この本を読んでわかったつもりになるよりも、彩流社などから出ている、当事者による記録を読むべきである。
それで、私も自分の生活の中でどうだったのか思い出そうとしているのである。



一回り前の午年の秋、私は二回山谷に行った。
仕事の本筋ではなかったが、「山谷の写真が要る」ということにして取材に行ったのだ。
初回は一人で、二度目は瀬戸山さんというカメラマンに写真を撮ってもらった。
この人もかなり怪人の部類に入る人で、「フォトジェニックな場所ですねえ」と喜んでいた。
翻訳すれば、「山谷ではいい写真がたくさん撮れますね」といったところか。
帰りには隅田川沿いの、いわゆる段ボール・ハウスの撮影をして、あの強烈な形の建物でビールを飲んだ。
実にのんきな取材であるが、それでも山谷にいる間は結構緊張したのであるよ。

どうしてそんな余計な作業を突っ込んだかというと、そんなに遠くない将来に山谷のルポをものしたかったからである。
果たせぬまま、あっという間に暦が一巡してしまった。
あらあら。

新潮OH!文庫『山谷ブルース』は、カリフォルニア大学アーバイン校教授エドワード・ファウラーさんによる、ちょうどそのころの山谷ルポである。
私の嫌いな社会学的分析ではない。
ガイジン・ファウラーさんが実際にドヤに寝泊まりして書いたルポである。
ただ、状況べったりの記述だけでは意味がない。
「状況と斬り結ぶ」客観的視線。
これが難しいんすね。
ファウラーさんの山谷ルポ、いい線だと思います。
カラオケで岡林信康の「山谷ブルース」と菅原洋一の「今日でお別れ」を歌う、そういう外国人学者さんです。

だいたい、「天皇」や「ヤクザ」の分析は外国人が書いたものの方がしっかりしている。
そういうものは日本人が客観的な分析をできる領域にないらしいのである。
以前は寄せ場も似たような領域にあった。
今は……山谷そのものがどうなってるんだろう?
私がちょろちょろっと歩いたのは猛烈な地上げの真っ最中。
ドヤもホテルへの立て替えが進行中だった。
ドヤがなくなる予感があった。
あれから13年も経っているのだ。

日雇い労働者は、景気が悪くなれば切り捨てられる「雇用の安全弁」という呼び方があった。
それは実に不遜な言い方だが、既に安全弁としては機能しなくなっているのかもしれない。
「Bum(浮浪者)はu(YOU)なしには語れない」のだそうな。
あんたもそうなるかもしれないよ。
そういう時代が近づいているのだろう。

ところで、私がウロウロしたのがなぜ午年だと覚えているのか。
この取材の本筋は、「建て替えのために木賃アパートから追い出される高齢者」だったのです。
追い立てを食うことになっていたおばあさんに、その年の暮れ、私は年賀状を出しました。
取材先へ年賀状を出したのは後にも先にもこの1枚だけ。
そのおばあさんが返事の葉書に羊の絵を描いてくれたので、年がわかるのです。
山谷ブルース
エドワード・ファウラー著
『山谷ブルース』
新潮OH!文庫
本文 398p
定価:¥733+悪税





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「イムジン河」(1968年/2002年)

【追記】
 今日は夕方うまいこと仕事を抜けることができた。(おいおい)
 スーパー屋上で夕焼け観賞。
 途中でバッテリーが切れたのが残念。

 [I Love Sunset!]夕陽が好き!
 画像追加しました。


数日前の深夜、書斎の電話が一回だけ鳴って切れた。
一瞬、電話をかけなおさなけりゃと思った。
ちょっと苦笑した。
そんな必要はないのだ。

以前そんな習慣があった。
一回だけ電話が鳴って切れたら、僕がかけなおす。
もうそんな相手はどこにもいない。

今はインターネットに接続するための回線。
おまけのようにFAXがつないであるだけだ。
連絡をとる必要がある人は、携帯電話にかけてくるだろう。
ワンコールで、誰なのかちゃんと着信履歴が残ってくれる。

でも、もしかしたらと少しだけ思ったのも確かだった。


70年代後半だろうか、松山猛さんの名前をいろいろな雑誌で見かけるようになって、ずいぶん不思議に思ったものだ。
この人は「イムジン河」の作詞者だよな???
どうして???
加藤和彦さんや北山修さんと友達らしいのだが、それでもなんだか釈然としなかった。
黒幕みたいな人なのかしらという感想。

その、謎の怪人松山猛さんが『少年Mの イムジン河』という本を出しているのを知って、注文してみた。
「少年M」の戦後史をごく簡潔に、しかも地に足のついた具体的な書き方をしているので、フォークルと松山さんのイメージがちゃんと結びついた。
これでやっと長年の「???」が晴れたのである。

曲で歌われる「イムジン河」は朝鮮半島を南北に分ける軍事境界線に沿って流れる臨津江(リムジン川)。
もちろん元曲は「リムジン川」と歌われるべきである。
ただ、フォークル松山版「イムジン河」は、「イムジン川」でいいと思う。
それだけの歴史を背負った曲なのだから。
「イムジン河」と「リムジン川」を比べたい方は、googleしてみたのでどうぞ。

北朝鮮の歌<リムジン川>>

この本の中では、同時代人としてキング牧師が語られ、有名な「私には夢がある」が引用されているのだが、これがとても良い。
少年時代に在日朝鮮人の友人がいたことを語り、朝鮮動乱、ヴェトナム戦争を語り、自然な流れでキング牧師が引用される。
このきわめてあたりまえなことを、日本の学校では普通は教えないから。

のどかな県のんびり市にあるのんびり西高という公立高校は、アンネ・フランクやマーチン・ルーサー・キングJr.が大好きなのです。
私の出身校ではありません。
去年まで女子高だったので。
今年からやっと名目どおり男女共学になったのです。

とにかく毎年アンネ・フランクやマーチン・ルーサー・キングJr.に関する読み物を読ませるのですが、それをこの現代や日本と関連づけて語ることは絶対にありません。
ユダヤ人差別と黒人差別は、まるで遥かな国、遠い昔のことなのです。

もちろんパレスチナ人を追い立てるイスラエルとアンネ・フランクはまったく関係ない出来事に見えてしまうし、日本の中の差別は見ないふりをします。
ついでに言えば、その高校は原爆の話も大好きなのですが、戦争で日本の国民はとても苦労したんだという文脈でしか語られません。
日本の植民地になったり、日本に占領された国々のことには触れません。
庶民、つまり日本国民が単に被害者だったとしたら、どうして東アジアでこんなに反日感情が盛り上がるのでしょう。

1968年に発売中止になったザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」は、昨年2002年、34年ぶりにシングルCDで発売された。
フォークルのメンバーと松山さんが朝鮮民謡だと思っていた原曲には作詞作曲者がいて、それが北朝鮮の人だったために朝鮮総連からクレームがついたのだという。
2番と3番が原曲に忠実ではない、松山さんの作詞だったからだ。

昨年の再発売の際に、そこが本当にクリアーされたのか、疑問が残る。
実はこれも日本国内の自主規制による「放送禁止」の問題だったのではないか。

ところで、昨年の新生フォークル「新結成記念 解散音楽會」コンサートで北山修さんは何度も「ハングル語」と言ってしまっているが、そんな言語はない。
日本語のことを「かな語」とは言わないだろう。
「韓国語」や「朝鮮語」がまずいのなら、どうして「韓国朝鮮語」と言わなかったのかなと思う。

少年M イムジン河

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吉田拓郎「シンシア」(1974年)

楽天広場に出店を開いて、これで丸二ヵ月経過。
記念して、今日は蔵だし。

ある言葉を耳にすると反射的に思い出すことがある。
たとえば「domestic」→『邪宗門』。
これは高橋和巳さんの小説の中で、旧制高校の生徒が生煮えの芋をかじって叫ぶ冗談が染みついてしまったのです。
「どめすちっく!」→「家庭の!」→「固いのぉ!」

regretなんて言葉も、ユーミンの歌を思い出す。
ところが頭の悪いことに、これがいつも間違っている。
「regret」→「安いサンダルをはいてた」
これ、違うんです。

これは私の記憶回路がショートしてまして、正しくはこうなんです。
「regret」→「憎んでも覚えてて」
強烈な印象を受けた二曲の歌詞がまざってしまったんですね。

「青春のリグレット」(1985)
 ♪ 私を許さないで 憎んでも覚えてて ♪

「DESTINY」(1979)
 ♪ 今日にかぎって 安いサンダルをはいてた ♪

今はこういう言い方をしないけど、以前は「ユーミン派」「みゆき派」などという分類が可能でありました。
まあ、一途なファンが多いのかもしれませんが、私の場合は70年代はユーミンの方を聴いていて、80年代以降は明らかに「みゆき派」でありました。
ほら、リゾートで信州とか湘南とかに出かけたりしないから。
近いんだけどね。
今は大御所たちより、椎名林檎の方がいいっす。
まったく若い娘に弱いんだから。

このごろはなくなってほっとしている質問が、「モーニング娘。の中で誰がいい?」
すまんです、誰がいいなんて、とてもとても。
「どうでもいい」が私の回答でした。
なんといっても個体識別ができない。
林檎、ヤイコ、UA、Coccoは個体識別ができます。
誰でもできるか。

ず?っと、アイドルというものに興味がなかったのです。
小泉今日子さんはかなり好きでしたが、それはNHKの近所で偶然本人を見かけて、とってもかわいかったから。
メディアで見かけても、いまひとつ実感わかないのね。
生身の女性の方が好きでした。
おお、すごくいやらしい発言だぞ。

それでも、南沙織というとちょっと胸がキュンとなるかな。
これはね、吉田拓郎&かまやつひろし「シンシア」という曲が好きだったんです。
ゆったりとしたフォークロック調で、ブルースハープ(ハーモニカじゃ)の音がかぶさってくる曲に弱いのね。
フィドル(バイオリンじゃ)やスチールギターも可です。

1974年の曲。
高校2年生の時(からン年間)好きだった子のイメージを重ねて聴いていたのでしょう。

ここのところ思考回路が回顧モードに入りっぱなしだったので、高校時代に好きだった女の子の名前などふと漏らしてしまう。
男女比が[6:1]ぐらいの学校だったし、自分としてはハードボイルドな日々を送っていたので、女の子と話すことはほとんどなかった。
でも、元来は惚れっぽいタチなんで、密かな片思いをじゃんじゃん繰り返すわけだ。

あやりん(仮名♀十代)が言う。
「今頃はいいオバサンだぜ。子供なんか三人ぐらい産んじゃって。」
「どしてそーゆーことを言うかなあ!」(半ばマジ)
「きれいな思い出なんだよね。」
すかさずフォローを入れる、あんたはオトナだ。

片思いはきれいな思い出になってくれるなんて私が気づいたのは、つい最近だよ。


ミカちゃんは僕より一つ年下だった。

高校2年の夏、僕たちは学校のバンガローに泊まる届けを出した。
ふざけた団体名にしたら先生に怒られたので、「水泳部」などという名前にした。
仲間に水泳部なんて一人しかいなかったのに、それで許可が下りる。
これもなんだか欺瞞だよね。

そのころ僕は毎年夏風邪をひいていた。
野球の応援や高原教室で冷房の利いたバスに何時間も乗らされると、必ず風邪をひいてしまうのだ。
7月の終わりに数日寝込み、そして8月に静かな長い夏休みを迎える。

怪しげな僕たち「水泳部」と同じ時期にバンガローにやってきたのは、テニス部の女の子たちだった。
人数が少ないとはいえ見慣れてしまった同級生の女の子たちと比べると、1年生の女の子たちは新鮮に見えた。
おとなしい野獣である「水泳部」は、ろうそくの明かりを囲んで蚊取り線香の煙に燻されながら、どの子がかわいいなどと品定めをした。
僕は髪の長い小柄な女の子がかわいいと思った。
友人と見解が異なるのは、このような場合は幸いである。

学校ではまったく女の子と会話をすることがなかったのに、海辺のバンガローでは少しだけ口が開いた。
ただただ泳いで、食事を作って片付け、夜中にこっそり酒を飲みながらくだらない話をする数日が続いた。
その間にどこをどうしたものか、その子と一緒にボートに乗る機会までできてしまった。
髪の長い子はたまたま僕と苗字が同じだったので、自然にファーストネームで呼び合うことができた。
ミカちゃん!

1973年8月11日本当に月並みな言葉しか思いつかない。
ボートに乗った水着のミカちゃんはまぶしかった。
何か楽しいことを言わなけりゃと思いながらも、やっぱり言葉が浮かんでこない。
泳ぐときは髪を束ねてあるのだが、あの長い髪がそんなに小さくまとまるものなのか。
そんなくだらないことしか言えなかった。
見りゃわかるだろ。

もちろん時は美しいからといって止まるはずもなく、幸せな瞬間はすぐに終わってしまった。
まったく接点のない日常が戻った。
が、友人たちを驚かせたのは、誰も予想しなかった、その後の僕のしぶとさである。
僕は年賀状と暑中見舞いを出し続けた。
毎回ちゃんと返事が来た。
そのハガキは当時の宝物になった。
受験参考書「試験にでる英単語」にミカちゃんの似顔絵を描いた。

その後僕は東京で暮らすようになり、それから一年後ミカちゃんは名古屋の大学に進学した。
夏休み、僕はミカちゃんの実家に電話をかけた。
お母さんが電話に出て、明るい声でミカちゃんを呼んでくれた。

寒い夏で、トレーナーを着ていても薄ら寒かった。
久しぶりに見るミカちゃんの髪はショートカットになっていた。
晴れていたらあの公園に行こうと思っていたと、ミカちゃんが丘の中腹にある平和祈念公園を指さした。
喫茶店で何時間も話をした。
高校時代の彼氏と別れたのだという。
それじゃあオレが代わりに、とは思わなかった。
大学の話をして、下宿生活の話をして、サークルの話をして……。

冬休みにも会った。
同じように何時間か話をした。
これで終わり。
たったこれだけ。

ダッフルコートを着たミカちゃんは、樹村みのりさんのコミック「ポケットの中の季節」の表紙の女の子に似ていた。
かぐや姫の曲「おもかげ色の空」の歌詞を思い出した。
年賀状と暑中見舞いの返事は、今も机の引き出しの中にあるはずだ。
ミカちゃんは僕より一つ年下で身長は152cm、小さくて、とってもかわいかったんだよ!

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「おとこ東大どこへ行く?10年目の東大全共闘?」(1978年)

【追記】

中の人などいない。

覚えてないが、たぶん画像への直リンをやめてくれと言ったのだろう。
あんたのサイトにどうしてアタシが画像をサービスしてやらにゃならんの。

引用という言葉はご存知ないようだな。

—————————————————–
@hisamichi 自分の描いたもんでもあるまいしそのキャプだって本からの無断転載だろ日本人めんどくせーって思ってすぐ外国のサイトからの画像に差し替えた 半年くらい前 Web Site Twitter web 2007-10-20 18:47:09+09
@hisamichi 2003年に再放送してたんだ どうでもいいけどこのブログの中の人に、「無断リンクはいいけど画像転載は許してませんっていわれたことあったな」赤瀬川源平の漫画http://plaza.rakuten.co.jp/gensenkan/diary/200310280000/
—————————————————–


10/26(日)の「NHKアーカイブス」は1978年11月25日放送の『ルポルタージュにっぽん「おとこ東大どこへ行く」?10年目の東大全共闘?』だった。
東大紛争から十年後、東大全共闘のメンバーを作家橋本治さんが訪ね歩く。

「桃尻娘」「桃尻語訳 枕草子」「窯変 源氏物語」の橋本治さんである。
1968年、東大紛争の真っ最中に橋本さんが作った東大駒場祭のポスターが話題を呼んだ。

 > とめてくれるなおっかさん、
 > 背中の銀杏が泣いている、
 > 男東大どこへ行く

ルポルタージュにっぽん橋本さんの言い方だと、それから十年「布団をかぶって寝ていた」そうだ。
十年寝太郎、橋本治。
「われわれ」ではなく、徹底的に「個」に閉じこもり続けたということである。
岡林信康「わたしたちの望むものは」が「わたしたち」を否定する逆説的な歌であり、「友よ」の連帯を拒否したことを思い出す。
しかし、このドキュメンタリーは、「個」がまた再び連帯を求めて「われわれ」を取り戻そうとする旅である。

番組は1978年の駒場祭の映像から始まる。
1978年、私は都の西北大学の学生だった。
つまり、そこに出てくる東大生諸君は同じ世代の学生たちだ。
昔のポスターを抱えて登場する橋本さんは長髪にオーバーオールのジーンズ。
「俺たちの旅」に出てきそうな風体である。

紛争当時の映像では、本当にキャラメル・ママみたいなおばちゃんが出てくる。
もちろん細野晴臣さんや鈴木茂さんみたいなのが出てくるわけじゃないですよ。
バリケードの中のボクちゃんにキャラメルを差し入れしようととしたお母さんのことを揶揄して「キャラメル・ママ」と言ったのです。
自信ないですけど。
なにぶん1969年1月の安田講堂の攻防戦の時はまだ小学生だったので、よくわかってません。
権威や権力と戦うのもかっこいいなあ、ぐらいの感想はありましたです。
1970年11月の三島由紀夫割腹事件の時は中学校1年生でして、全共闘やら憂国やらより、とにかく新聞に載った生首が気持悪かったという印象しかありません。

お、「10.21」の映像だ。

●芥正彦(俳優)
●相原亮司(三里塚農民)

ああ、そうだった。
まるでノンポリだった私のようないいかげん学生にも、1978年3月26日には三里塚に行くように大動員がかかったのだった。
その日、空港の管制塔が破壊され、成田空港は開港が延期された。
掲示板に書きましたが、帰りは夜になって、ヘリからサーチライトで照らされて周囲が昼間のように明るくなるのが、とっても恐かったです。
 ♪烏合の衆?♪

集会にはフランスのラルザックから空港反対運動をしている人が来て連帯のアピールをしていました。
空港というのはやばいなあと思いました。

今、のどかな県では要らない空港を作ろうとしています。
横に長い県なんで、東部ののんびり市にはまったく関係ない空港です。
羽田に行った方がはやくて便利なのですから。

1978年、私は論文を書こうとしていました。
卒論は不要な学部なので、ゼミの先生に提出するゼミ論です。
本当は日本思想史をやりたかったのですが、なんとなく友だちに誘われて地方自治論・住民運動論のゼミに入りました。
論文の研究対象は、故郷のんびり市の住民運動です。

1963年から1964年、東京オリンピックに向けた高度成長期に、のんびり市では石油化学コンビナートの建設計画を、住民運動によって撤回させたのです。
全国各地の住民運動が開発側に破れていく中で、ひときわ目立つ、「勝利した」住民運動なのです。

私は『平成狸合戦ぽんぽこ』という映画を見ると、必ず泣いてしまいます。
次々に戦いに破れ、無念のうちに死んでいった方々の姿が見えるからです。
私は泣き虫です。

のんびり市で反開発側が勝利したのは、リーダーが地元の高校の先生たちであり、草の根保守も、地区労組も、反コンビナートという一点で協力したからです。
おかげで、今も海や山できれいな夕陽を眺めることができます。

人口20万人の都市で8万人規模の建設反対集会が行なわれました。
普通の家庭で近所の人たちと建設の是非が論じられ、小学校低学年だった私も、家でデモ用のプラカードの看板を描くのを手伝いました。
ちばてつやさんのマンガのコマから、咳をしている絵をパクッて、喘息になりたくないというような絵を描いたのです。
四日市ぜんそくが社会問題となり、新潟のコンビナートで1ヵ月以上火災が続いていたのです。
これが私の、民主主義の原体験です。
どうしてみんな、こんなことがあったのを忘れてしまうんでしょうか。

この石油化学コンビナート反対運動の継続的な成果として、70年代には全国でもトップを切って先進的なゴミ処理システムが作られました。
ゴミにせず、資源としてリサイクルしようという、分別収集です。

が、遺産は食いつくしてしまったようです。
今は天下り市長が典型的な土建屋行政を行なっています。
駅周辺、それから私が夕陽を撮影した山も海も、夜はずいぶん物騒な雰囲気です。

土建業界のために行なう開発は、人心が荒廃します。
柳町光男監督の『さらば愛しき大地』(1982年)は覚醒剤の恐ろしさを描いた映画ということになっています。
が、あれは開発によって崩壊していく共同体を描いたものです。
のんびり市から追い出されたコンビナートは、千葉や茨城に行ったわけです。
大変申し訳ないことをしましたね。

●武田和夫(山谷労働者)

東大法学部を中退して山谷に入った武田さんは、番組制作当時、永山則夫さんの「反省共立運動」を支援していた。
その後も多くの死刑囚の支援に取り組んで、「死刑廃止全国ねっとわあく」の活動をしている。
「連続射殺魔」永山則夫もまた団塊の世代だったのだ。

山谷での取材中、妨害が入るのが生々しい。
NHKは暴力団の悪事をもっとやってくれという山谷労働者の声が痛い。
これがせいいっぱいだろう。
番組製作者はよくがんばっている。

●今井澄(諏訪総合病院・院長)
●水戸部貴士(当時・横浜国立大学生)

水戸部さんの言葉。
「外人部隊が罪が重かったわけだ、みんな」
事実はどうなのか知らないが、ありそうな話だ。
官僚養成学校の学生は、身内に支配者層に近い者が多い。
オウム真理教事件の際に、法皇がどうしたとかいう部署の責任者だった人物は、無罪放免になったことを思い出す。
大江健三郎に「私大生」などとばっさり切り捨てられる都の西北大学出身者は、楽天広場でウダ巻いてるぐらいのところだ。
「ボクって何?」どまりではちょっと悔しいね。

●加藤一郎(東大法学部教授 当時・東大総長代行)
●林健太郎(日本育英会会長 当時・東大文学部長)

ま、この人たちはどうでもいいわ。
橋本さん、「東大紛争」と言うはずのところを「東大闘争」と言い間違えている。
ついつい気持ちが、ね。
NHKさん、これをアーカイブだけで流すのはもったいないよ。
今を撮って一緒に流してくれ。


【追記】
 実に不愉快な請求書&督促状が来ます。
 いかにも怪しいので、すぐに詐欺だとわかります。
 うちの場合は幻の家人宛てだし。
 お好きな方は画像をご覧ください。
 電話しちゃいけませんよ。
 
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五つの赤い風船「美しいものは」(1973年)

秋の好日。
法事の後、時間ができたので海に急ぐ。
なんとか夕焼けに間に合った。
記号化した地図だと海岸線が東西に走っているように見えるところなので海に沈む夕陽は見ることができないのかと思ったら、堂々と海に沈んでいった。

堤防には、夕陽を見に来ている市民が多かった。
堤防の上はまさに夕陽に照らされたプロムナード。
子供たちが水際で遊んでいるが、静かに海と空を眺める人が多い。
町なかではバカップルなど見かけると腹が立つのだが、夕陽を眺める人たちはみんな幸せな表情をしているので、カップルもほほえましく見える。
本当は撮影なんかしないで、ただじっと夕陽を見ている方が幸せだったんだろう。

山で見た夕陽も、海で見た夕陽も、とてもきれいだった。
のんびり市、とてもいいところだ。
幻泉館主人は非国民かもしれないが、のんびり市の市民ではある。

今までこんな風景を知らなかったので、損をしていた気がする。
でも、今発見したからこそ、素直に美しいと言えるのかもしれない。
日曜日の夕方、家族で海に沈む夕陽を眺める。
これが幸せというものなんだろうな。
本当に絵に描いたような、幸せだ。
だけど、他人の幸せを嫉妬するような気がまるで起きない。
何より、海と夕陽の美しさのおかげだと思う。

夕陽の中を、小さな漁船が横切っていく。

五つの赤い風船に「美しいものは」という曲がある。
あの『ゲームは終わり 五つの赤い風船解散記念実況盤』にしか入っていないのではなかろうか。
歌っているのはベースの長野隆さんかな。

 ♪ 山を見ていると ♪

何もほしくなくなるという歌である。
「家も道も車も」「町も汽車も畑も」

 ♪ 何もほしくなくなる ♪

およそ人為的なものは何も要らないというのである。

 ♪ 美しいものは 人の世にはなく ♪

さらには、「愛する人さえも」ほしくなくなるし、「私もいなくていい」という歌である。
ああ、いなくていいなと思った。

帰りの車の中では、ジョン・レノンの「イマジン」がかかった。
私は音量を上げて、大声で歌いながら家に帰った。
天国も地獄も国家も要らんのだ。

夕陽が好き![I Love Sunset!] 本日の夕焼け画像を追加しました。

2003年10月26日 千本浜



掲示板が変わってからレスが付けにくくなって、すっかり御無沙汰していた「日本のフォークソング」の掲示板。
なんとなく覗いてみたら、avexから出たURCの復刻盤CDに岡林信康の曲が入っていない理由がわかった。

http://6027.teacup.com/folk/bbs

わかったのだが、納得はできない。
avex/amazonの売り方である。
これでは「復刻盤」ではないじゃないか。
収録できなかったのなら、その説明をすべきである。
非常に不愉快。
かといって、五つの赤い風船の『ゲームは終わり』は風船の部分だけでも聴きたいことは聴きたい。
ちっ。

五つの赤い風船にハマッたデインジャラスりえどん(仮名♀十代)だが、その後続けて古い流行歌の世界を探検しているようである。
ただ、「なごり雪」とか「木綿のハンカチーフ」とか言っているので、風船ほど特殊ではない。
このあたりの曲ならカラオケ屋さんにもあるだろうし、どこの高校にもそんな曲を好む変わり者がいるものだ。

「なごり雪」を歌ってくれとせがまれて、歌いながらついつい余計なことを言ってしまう。

 ♪ なご?りゆき?も ふるときをし?り?♪

いちばんいいところだ。
「これさ、こう聞こえない?」

 ♪ ふるとき お尻?♪

だまし絵と一緒で、一旦そう聞こえるようになると、もうダメである。
名曲がだいなしですな。
実に申し訳ないことをした。

「鈴を鳴らして」という歌詞が出てくるのはアン・ルイス「白い週末」だったかしら。
「すず おならして」に聞こえていました。



今は亡き親父様の十三回忌。
親父様の世代の近い親戚だけなのでごくごく小規模に済み、良かった良かった。
寝ぼけたまま頭をからっぽにして言われるままに動いたので、楽チンは楽チン。
年寄りばかりなので、若者(!)である私がへいへいと車でパシりまくる。
こういうのは気楽でありますな。

宗教は阿片であるという命題は正しいと、私は考えています。
だから帰依なんぞしていない。

ただ、寝ぼけた頭で和讃や正信偈を唱するのは好きだ。
みな自分の声の高さで、時々間違えたりしながら読み上げていくと、西洋音楽の平均律にはない、深いハーモニーが生まれる。
身をゆだねていると、まさに往生安楽国?という感じがしてくるわ。

正信偈というのは、日本史で習った親鸞の「教行信証」の行巻末尾にある偈文(げもん)のことです。
「正信念仏偈」の略だそうで、信仰告白と宗派の要旨のようなもの。
龍樹のような見知った名前が出てくると嬉しいですな。

思想史上、現在に直結する日本のオリジナルな思想が生まれ出たのが鎌倉新仏教だと言われています。
その一人、親鸞の思想のエッセンスが、この正信偈なんだそうです。

正信偈 本文, MIDI, MP3

正信偈 解説

浄土真宗は他力本願なので、行を説く般若心経を読み上げることはしません。
他宗派の葬式なんぞにも行ったことがあるはずなんだけど、でも教典を読み上げたりした覚えがないなあ。
いろいろやってみたい気はするのだけど、まだ機会がありません。
御詠歌というのに興味があります。

【追記】
 法事から帰ってこの「幻泉館日録@楽天」にアクセスして気づいたのだが、この色合いは葬式ではないか?
 本館はちゃんとスタイルシートが使えるので文字色を淡くしてみたのだが、楽天では細かい設定ができない。
 それで墨のグラデーションをバックに敷いてみて、落ち着いていて良かろうと思ったのだが、実に抹香臭いではないか。
 話題が仏教だと、本当に滅入ってしまう。
 早く気づけよなあ。

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70年代サブカルチャー&反原発

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