CHRONICLES #18 (Bob Dylan)

IP屋上駐車場 2004年11月25日

【トラックバック試験】
遅々として進みませんが、何も焦ることはありません。
要するに何が書いてあるのか、などと問うなかれ。
ボブ・ディランという人物が生きている、その一瞬一瞬が活写されているのですよ。
ディランは回想から我に返ります。
といっても、まだレイとクローイの部屋でニューヨークの雪景色を眺めているところから、まったく進んでいません。
ディランはクリーム色のドレープ(カーテンのような覆い)まで歩くと、ネチャンブラインド(ひもで上げ下げや採光調節をする板すだれ)を巻き上げて、雪の大通りを見下ろします。
ここの家具は上等なもので、手作りのものもあった。
衣装箪笥は象眼細工が施されており、掛け金にも飾りがあった。
本棚も床から天井まである、装飾的なもの。
不規則な幾何学模様の付いた、長細い直方体のテーブル。
There were electric plates ingeniusly placed in closet shelves.
これが何のことだかわかりません。
まさかホットプレートじゃありませんわね。
う?ん?
レイとクローイの部屋がどんなだったのかを詳細に思い出してくれているのですが、これは私にはとてもわかりにくい部分です。
1960年ごろのニューヨークの生活実感というものが、まるでつかめないのです。
台所は森のようだった。
メグハッカ(pennyroyal)、クルマバソウ(woodruff)、リラの葉といったものの箱でいっぱいだった。
流行というよりも、やっぱりちょっと変わった人達だったのだろうと思います。
北部の血統だけれども南部生まれのコールという娘は、バスルームで物干しの綱を使うのが上手だった。
僕(ディラン)のシャツもよくそこにぶら下がっていた。
僕はいつも夜明け前にやってきてソファにすべりこんだ。
血を求めて蒸気で動く鉄の馬、夜行列車のガタゴトいう音(rumbling and grumbling)に合わせて寝入ることが多かった。
ディランは小さなころからよく列車を眺め、その音に親しんでいたので、列車を見たりその音が聞こえたりすると、安らぐのだそうです。
心の故郷。
あの不思議なジャケットを思い出します。
 →Slow Train Coming (1979)
私の場合も谷間の村を走る列車に郷愁を感じます。
小さなころ谷川で泳いだ村。
 →絵の中のぼくの村
他の映画にも印象的な列車が出てきますね。
主人公が鉄橋にぶらさがる『路傍の石』は、何度も映画化されています。
『スタンド・バイ・ミー』も狙って作ってますなあ。
お、翻訳の誤りを指摘しているサイトがあります。
 →“The Body” (「スタンド・バイ・ミー」)の翻訳について
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CHRONICLES #17 (Bob Dylan)

千本浜 2004年11月23日

ニューヨークで知り合いの家を泊まり歩いているころのことを回想しているディランに戻ります。
窓から雪景色を眺めながら、小学生のころのことを思い出していました。
今はニューヨークにいるんだ。
周りには、きっと共産主義者も反共主義者もたくさんいることだろう。
ファシストもたくさんいるんだろう。
左翼の独裁者気取りの者(would-be)も、右翼の独裁者気取りの者も、たくさんいることだろう。
あらゆるタイプの過激派がいる。
第二次世界大戦によって啓蒙の時代が終わったのだと言われていた。
でも、僕(ディラン)はまだその中にいた。
そういうものに光明を感じた。
ヴォルテール、ルソー、ジョン・ロック、モンテスキュー、ルター……。
こういった予言者、革命家は、まるでうちの裏に住んでいる知り合いみたいだった。
おもしろいなと思ったのは、ディランがこういった啓蒙思想家の名前を挙げていることよりも、こういった人の本を読んでいたということです。
たとえば日本の高校生は、そこそこ優等生の部類なら今ここに挙げた人の名前をほとんど知っていると思います。
でも、実際に彼らの著書を読んだかというと、逆にほとんど読んではいないのではないかと思います。
貼り付けられたラベルを暗記しているだけではないでしょうか。
これで日本の文化の浅さがわかるような気がします。
まだp.30。
できれば追記して読み進めたいと思います。
『クロニクルズ』の追記は下に付けます。
【メモ】
「MovableType」は実に簡単に自前サーバにインストールできた。
高機能である。
これはいい。
ただし、URLを明示的に書き込んで置かなければならないので、私の場合はLAN専用で使うのか、公開用にするのか二者択一となる。
コメントやトラックバック機能が欲しいので公開用にすると、LANからでアクセスできなくなってしまうのだ。
惜しいなあ。
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CHRONICLES #16 (Bob Dylan)

千本浜 2004年11月22日

極東で米ソの代理戦争が行なわれていたころ、アメリカではつい数年前に友軍だったロシアに対する脅威が声高に叫ばれていました。
誰かがショットガンを突きつけている時に怖がるのと、現実ではないものを怖がるのは、まったく違うことだ。
でも、この恐怖を本当だと受け取って、それを押しつけてくるやつが多かった。
そして、簡単にこの空想の犠牲者になってしまうのだ。
小学校の教師は、ディランの母親を教えたのと同じ教師だった。
母親の時は若く、ディランの時には年をとっていた。
アメリカ史の授業では、共産主義者(commies)は銃や爆弾だけではアメリカを壊すことはできないと教わった。
アメリカ合州国憲法(the Constitution )を壊さなければならないのだ。
でも、まったく同じことだった。
空襲警報が鳴れば、机の下に顔を下に向けて寝ころばなければならない。
筋肉一つ動かしてはならないし、物音一つ立ててもならない。
まるでこうすれば、爆弾が落とされても助かるかのように。
ディランの回想から、当時のアメリカ国民が、いかに共産主義者の攻撃を恐れていたのかうかがえます。
同時に、アメリカ人が空襲や核兵器に対して無知であったこともわかります。
このくだりを読んで、『アトミック・カフェ』(1982年)という映画を思い出しました。
マイケル・ムーア監督のお師匠さんたちが作った映画です。
冷戦下アメリカで流されたニュース映像や政府広報映像のコラージュです。
まさにノー天気に核戦争を考えているのだなあとわかります。
一般的なアメリカ人は原爆を落としておいて、その下でどんなことが起きたかということには無知なのです。
 →『アトミック・カフェ』
もっとも、アウシュビッツや広島長崎については教えても、南京のことは教えない日本であまり偉そうなことは言えません。
アメリカの人種差別に関しては詳しいのに、日本の人種差別に目を向けないというのもありましたな。
ほんのちょっとしか進んでません。
p.30。
ひさしぶりに丸一日お休みなので、追記できるかな。
『クロニクルズ』の追記は下に付けます。
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CHRONICLES #15 (Bob Dylan)

千本浜 2004年11月20日

【お知らせ】
幻泉館サーバ御利用の皆様
下記時間帯はNTTの工事のため、一時停止します。
11月26日(金) 04:00?06:00
ほんの一瞬で済むこともありますが、午前中いっぱい停止してしまう場合もあるので御了承ください。
【追記】No.1
書斎の蛍光燈が点滅して鬱陶しいので取り外した。
買って来なくては。
スタンドがあるので別に困ることはないのだが、暗い部屋の中で中島みゆきを聴いている。
そう、中島みゆきさん。
少し前にamazonからクーポンが届いたのだ。
「地上の星」の苦しそうな歌い方があまり好きではないので今回の新譜はどうしようと思っていたのだが、それで買うことにした。
すべて昔の曲である。
なんとなく「夜会」を観ているような気分になる。
オリジナルより聴きやすいものが多いように思うが、凌いでいるかというと微妙なところだろう。
「怜子」「信じ難いもの」「傾斜」といったあたりの選曲が嬉しい。
よく間違えられるようだが、「怜子」と「玲子」はだいぶ意味が違う。
「怜悧・伶俐」の「怜子・伶子」。
「玲瓏」の「玲子」。
「知」と「美」の選択である。
と、レイコさんが言ってたなあ。
1978年のアルバム『愛していると云ってくれ』。
お元気ですかという語りで始まるこのアルバムが、やはり「中島みゆき」だなあと思ってしまう。
「本当に泣いているんですか?」
「教えてあげない。」
詩人との対談を思い出す語りに続き、♪れ?い?こ?♪と歌い出すこの曲は凄かったなあ。
「化粧」や「世情」も入っていた。
「ネクラ」という流行語で片付けれられることが多かったけれど、あのころのそういう凄みが、今は乏しいように思う。
中島みゆき『いまのきもち』
 3150円(悪税込)
1. あぶな坂
2. わかれうた
3. 怜子
4. 信じ難いもの
5. この空を飛べたら
6. あわせ鏡
7. 歌姫
8. 傾斜
9. 横恋慕
10. この世に二人だけ
11. はじめまして
12. どこにいても
13. 土用波



The trial reminds the whole world of what led to the formation of the Israeli state.
アイヒマンの裁判は世界中に、イスラエル国家の成立を生み出すことになったものを思い出させる。
これはナチスのユダヤ人殺戮を意味するのだと思います。
こう書いた後、原文は2行アキ、やっと年号が出てきます。
I was born in the spring of 1941。
ヨーロッパでは既に第二次世界大戦の戦火の下にあり、アメリカもまもなく参戦することになる。
世界が分断され、新しくこの世に生まれた者たちの顔にはいきなり混沌の拳が見舞われていた。
すんません、元の語の雰囲気を生かそうとすると、よくわからなくなりますね。
世界は変わろうとしていた。
このころ生まれた者はみんな、旧世紀と新世紀をまたがって生きてきたのだ。
ヒトラー、ムッソリーニ、スターリン、ローズヴェルト。
似たような連中が現われることはもうなさそうな、そんな人たちが世界に屹立していた。
みな独りで行動し、互いに無関心であり、承認されようともしなかった。
みな人類の運命を支配しようとし、そして世界を瓦礫にしてしまった。
アレキサンダー大王、ジュリアス・シーザー、ジンギス・カン、カール大帝、ナポレオンといった長く続く列に連なり、彼らは世界を切り刻んだ。
ディランは第二次大戦時の列強指導者や、世界の英雄を批判します。
論証不能な、こんな感覚がいいなと思います。
やっぱりボブ・ディランはこういう人だったんだというのが嬉しいです。
そうでなければ、「戦争の親玉」「ハッティ・キャロルの寂しい死」を歌ったりしませんわな。
そういえば、最近「戦争の親玉」がニュースに登場してました。
コロラド州の高校で、「戦争の親玉」を歌った高校生がシークレットサービスに捜査されたというものだ。
 →暗いニュースリンク
ディランの父親は小児麻痺にかかったことがあるので、戦争に行かなくて済んだそうです。
でも、ポールおじさん、モーリスおじさん、ジャック、マックス、ルイス、ヴァーノンといった人達(たぶん叔父さん)は戦争に行きました。
それぞれ、フィリピン、アンツィオ(イタリア)、シシリー、北アフリカ、フランス、ベルギーへ出征しました。
そして、ガラクタをお土産に持ち帰りました。
日本製の麦わらでできたシガレットケース(?)、ドイツ製のパン袋、イギリス製エナメルペイントのマグカップ、ドイツ製防塵ゴーグル、イギリスの戦闘用ナイフ、ドイツのルガー拳銃。
これも順番どおりなのだと思います。
ともて詳細な記憶です。
1951年に、ディランは小学校に通っていました。
その時に訓練されたのは、空襲警報がなった際に机の下に隠れることです。
ロシア軍が爆撃するかもしれないから。
いつなんどきロシア軍のパラシュート部隊が降下するかもしれないのだとも、教わったそうです。
ほんの数年前に、ディランのおじさんたちが味方として共に戦った、あの同じロシア人が、です。
もちろん日本のすぐ近くで戦争があったころです。
例によって広辞苑の説明。
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ちょうせん‐せんそう【朝鮮戦争】
大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国とが、第二次大戦後の米・ソの対立を背景として、1950年6月25日衝突し、それぞれアメリカ軍を主体とする国連軍と中国義勇軍の支援のもとに国際紛争にまで発展した戦争。53年7月休戦。朝鮮動乱。
———————————————————-
道草を食ったので、まだp.29です。



【メモ】
せっかく自前鯖があるのだからweblogサーバにならないかと思っていたら、perlで動く「Blosxom」というものがあるそうだ。
読み方はblossomと同じ、「ブロッサム」ぐらいの感じ。
本体はなるべく簡素化してあり、プラグインでトラックバックやXMLに対応するようだ。
意外に簡単に設置できそう。
問題は日本語文字コードの扱いかな。
blosxom :: the zen of blogging
 Bloxom 本家
blosxom::日本語訳
 Bloxom 日本語訳
hail2u.net
 blosxom starter kit
ということで、早速試してみました。
ちゃんと動くのですが、LAN内から扱う時は外を経由することができないというのが、ネックになりますな。
ルータの仕様だからしょうがない。
iswebのようにcgiを使える外のサーバだったら問題なく動くだろうけど、それだったら楽天広場やgooやlivedoorがあるので、意味がない。
さて、どうしようか。
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転がる石のように

千本浜 2004年11月20日

【追記】No.3
書き忘れました。
もちろん「Rolling Stone」誌の「500 GREATEST SONGS OF ALL THE TIME」、略して「RS500」のことです。
RANK #1にBob Dylanの”Like a Rolling Stone”が選ばれたよということですね。
変な言い方ですが、神格化されがちなディランの曲も普通に流行歌なんだという感じが嬉しいです。
このランキングは雑誌のオフィシャルサイトで見ることができます。
 →The Rolling Stone: 500 GREATEST SONGS OF ALL THE TIME
表の上下に並べ替えできるスイッチがありますから、お気に入りの歌手が何曲入ってるか、すぐにわかります。
試聴できる曲が多いのが嬉しいですね。
ディランは11曲入ってました。
1 Like a Rolling Stone 1965
14 Blowin’ in the Wind 1963
59 The Times They Are A-Changin’ 1964
68 Tangled Up in Blue 1975
106 Mr. Tambourine Man 1965
185 Desolation Row 1965
190 Knocking on Heaven’s Door 1973
203 Positively 4th Street 1965
230 Just Like a Woman 1966
364 Highway 61 Revisited 1965
404 Visions of Johanna 1966
私の好きなMy Back Pagesが入ってないなあ。
ま、それは私がオレ様ベスト10を選べばいいだけの話ですね。
【追記】No.2
昨年のことになるのですが、正月三箇日を、新生フォークルを聴いて過ごしました。
マーチンの音や和太鼓の重低音にひたってました。
昔の曲ばかりではなくて、新曲もありました。
御霊を送り、そして自らがこの世を去ろうとする佳曲が「感謝」。
もうい一つ、「ライカはローリングストーン」という楽しい曲がありました。
あ、去年のネット忘年会のころ書いてますね。
 →2003年12月7付日録 新生フォークル「感謝」(2002年)
この「ライカはローリングストーン」は、もちろん「ライク・ア・ローリングストーン」をパクったタイトルです。
幸之助さんが実に器用にディランや拓郎さんの物真似をやったりして、ライブが本当に楽しそう。
この歌では「ローリングストーン」が、「いつまでも変わらないとっても大切なもの」という意味で使われています。
それが「ライカ」であったり、「マーチン」であったり、「カルチェ」であったり、「九州大学」であったりするわけです。
最後は「ワイフ」が「僕のローリングストーン」となって終わる、温かい曲です。
松山猛さんの作詞ですね。
【追記】No.1
オリジナルの「Like A Rolling Stone」は『ハイウェイ61再訪(Highway 61 Revisited)』(1965年)に入っています。
例によってbobdylan.comで試聴できます。
この曲名から、マジメな日本人は「A rolling stone gathers no moss.(転石苔を生ぜず)」という諺を思い出してしまうようですね。
この諺、まるで逆の意味に取れるので、大混乱してしまいます。
「転々と商売換えしては金はたまらない」が本来の意味で、「絶えず動いていれば苔がつかず新鮮である」というのがアメリカ型の意味だと習ったように記憶しています。
何分大昔の話なのでうろ覚えですが。
日本社会での世間様は、前者のイギリス型の意味の方が諺としてはしっくり来るでしょう。
何事もちゃんと腰を据えて地道にやりなさいなという、ありがたいご教訓。
ディランの「Like A Rolling Stone」は、もちろん「A Rolling Stone」を悪い意味で使っています。
「昔あんたはいい服を着ていた」
「一流校に行ってたね」
「みんな言ってた 気を付けろ 落ちるぞ」
「だれも宿無しの生活なんぞ教えてはくれず」
 ♪ How does it feel
 ♪ How does it feel
 ♪ To be without a home
 ♪ Like a complete unknown
 ♪ Like a rolling stone?
 ♪ どんな気がする
 ♪ どんな気がする
 ♪ ひとりぼっちで
 ♪ かえりみちのないことは
 ♪ ぜんぜん知られぬ
 ♪ ころがる石のようなことは (片桐ユズル訳)
ね、明らかに転落を意味してるんです。
いきなり「a rolling stone」と言えば、やっぱり住所不定で定職のない人なんかを指すんです。
根なし草とか、デラシネに近いんじゃないでしょうか。
ところが日本の受験英語のおかげで、この「ローリング・ストーン」が良い意味で受け取られているように思うんです。
昔はいい服を着て物乞いに施しをしてやっただろうに、今は次の飯をどうやって手に入れようか悩み、何も言わなくなってしまった、そんな「あんた」像ではないように思います。
なんというかな、こんなになっちゃったけど心はロックだぜ、みたいな使い方かな。
気持ちはわかるけど、かなり特殊だと思います。



今日は『クロニクルズ』をお休みして、「Like A Rolling Stone」を少し。
いえ、特になんだというわけではないのですが、何人かからおめでとうみたいなことを言われましたので。
思えば、最初に買ったディランのレコードがこれだったんですよ。
シングルでもアルバムでもなくて、CBSソニーが出していた「ポピュラー・コンパクト・シリーズ」。
以前にも書きましたね。
 →2003年10月6日付日録「花はどこへいった Where have all the flowers gone?」
シングル盤が400円、LPが1800円の時代に、盤のサイズはシングル盤と同じなんですが、33回転でAB面に4曲から6曲程度詰め込んだシリーズです。
アルバムから抽出した盤が多かったようですが、この『BOB DYLAN / LIVE AT ISLE OF WIGHT』はオリジナル編集です……かと思っていたら、後述アルバムからのピックアップでした。。
このシリーズはLP盤と似たような作りのしっかりとしたジャケットに入って、600円ナリでした。
アルバムのダイジェスト盤は、同じデザインでした。
この盤はダイジェストなのにジャケ写真が違うんですよ。
1970年に買ったのかなあ。
もう少し後かもしれません。
「風に吹かれて」「時代は変わる」は知っていましが、おなじみだったのはPP&Mによる演奏でした。
きれいなのね。
PP&Mに先行ヒットさせたのはディランを売り出す作戦だったそうなので、まあ私も見事にはまったわけです。
さすがにボブ・ディランの弾き語りによる「風に吹かれて」は知っていましたが、エレキギター(死語か?)に持ち替えたディランは、まだ聴いたことがなかったと思います。
それぐらいの感覚で買ったので、聴いた時には驚きました。
これがボブ・ディラン?
ぶっとびであります。
ジャケットを見ても、ディランが抱えてるのはアコースティック・ギターなんですよ。
A面1曲目、まさに「ライク・ア・ローリング・ストーン」が、その冒頭でありました。
この曲自体は1965年にヒットチャート1位になった、ディラン最大のヒット曲です。
なんとまあいいかげんに歌うんだろうと、びっくりしました。
バックはザ・バンド。
何度か聴いているうちに、どちらかというとこの音の方が70年代のベースになってしまいました。
順番が違いますが、『セルフ・ポートレイト』(1970年)に入ってますね。
例によってbobdylan.comで全曲試聴できます。
本当はワイト島で最初に歌ったのは「She Belongs To Me」だそうです。
当時のディランのお気に入りの曲ですね。

BOB DYLAN : LIVE AT ISLE OF WIGHT
 ワイト島のボブ・ディラン(1970年)
A-1 Like A Rolling Stone
A-2 Minstrel Boy
B-1 She Belongs To Me
B-2 Mighty Quinn(Quinn, The Eskimo)
BOB DYLAN : LIVE AT ISLE OF WIGHT
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CHRONICLES #14 (Bob Dylan)

千本浜 2004年11月13日

★下に【追記】No.1があります。
ヴァン・ロンクの友人でポール・クレイトンという人がいました。
ディランによれば少なくとも30枚はレコードを出しているはずだが、あまり知られていないそうです。
Dr. Paul Claytonということで、学者さんなんですね。
あれ、違うか。
googleで何人も違う人がヒットしてしまいます。
この人だな。
 →The Bob Dylan Who’s Who: Clayton, Paul
インテリで、学者で、詩人。
民謡(Balladry)の知識がとても豊富なんだそうです。
いきなりこんな記述があるということは、話は「Gaslight」で歌っているころのことなんでしょうね。
それで、このポール・クレイトンがディランに紹介してくれたのがレイ・グーチ(Ray Gooch)とクローイ・キール(Chloe Kiel)。
この部屋の持ち主はこの二人でした。
この二人に関しては、googleで検索しても、この『クロニクルズ』の記述がひっかっかるだけですな。
クローイは「ダフニスとクロエ」のクロエと同じ名前なので、女性です。
レイとクローイはカップルなんでしょう。
ディランはベッドから起き出て窓から外を見ます。
下には白と灰色の通りが川に延びています。
The air was bitter cold, always below zero, but the fire in my mind was never out, like a wind vane that was constantly spinning.
「a wind vane」というのは風向計です。
心の中では火が絶えず燃え続けていたという比喩に、くるくると動き続けている風向計をさらに加えるところがちょっと不思議です。
「midafternoon」と言ってるので、もう午後3時過ぎ。
部屋の主であるレイとクローイはいません。
レイはディランより十歳ほど年上と書いてありますから、三十路に入ったぐらい。
バージニアの出身で、年老いた狼のように痩身で喧嘩慣れした印象です。
血筋は良家のようで、司教や将官、植民地総督まで先祖にいます。
非国教徒で、非統合の南部ナショナリストだとありますが、その辺りの感じは今ひとつピンと来ません。
昨日出てきた「連邦様式の建物」にが似合いそうな気がします。
日本でいえば草莽の志士といった趣を持った人物でしょうか。
当時ディランが歌っていたような伝説の中に出てきそうです。
レイはアメリカの都市でのゴタゴタにはほとんど興味を示さず、本当の行動とは「コンゴにある」と言っていたそうです。
旧ベルギー領のコンゴ民主共和国と旧仏領のコンゴ共和国が独立したのが1960年。
レイは民族派だったのでしょう。
クローイは金髪で薄茶色の目をしていて、人形のように不可解な笑みを浮かべているのですが、たぶんかなりかっこいい女性ですね。
爪を黒く塗っていたというのはどうなんでしょう。
八番街の「the Egyptian Garden」で「a hatcheck girl」をしていたそうです。
ベリーダンスなんかを見せる店の、まあ受付みたいなものでしょう。
雑誌『Cavalier」のモデルもしていたというのだから、やっぱりかっこいいんですね。
二人は夫婦のようでもあり、兄妹のようでもあり、従兄妹のようでもあり、とにかく説明できないけど、一緒に暮らしていました。
p.26が終わります。



【追記】No.1
クローイはちょっと変わった人だったようで、ディランに妙なことを言います。
あんたアイシャドーを塗った方がいいよ、邪悪な目から逃れることができるから。
え、誰の目?
ジョー・ブロウ(Joe Blow)やジョウ・シュモウ(Joe Schmoe)の目。
この二人の名前は、つまり俗物を個人名化して言っているようです。
日本語で言えば、ミーちゃんハーちゃんといった感じ。
ピンクレディじゃないですよ。
さらにクローイは、この世はドラキュラに支配されているというのです。
ドラキュラとは、印刷機を発明したグーテンベルクの息子。
含蓄があるんだかないんだか、よくわからない会話です。
そして、ディランはこんな会話がとても楽しかったと書いています。
50年代のこんな文化はもう滅びる時が来ている。
でも、宗教のように深く心に刻み込まれたフォークソングは、そんな目先の文化には揺るがないだろう。
自分のねぐらがなかったので、ディランはこんなふうにビレッジ中を泊まり歩いていたのです。
一晩や二晩泊めてもらうこともあれば、一週間以上泊めてもらうこともありました。
ヴァン・ロンクのところに泊めてもらうことが一番多くて、レイとクローイのところが気に入っていたようです。
そこはくつろげたということですね。
レイはいい家の出身なので、サウスカロライナのキャムデン陸軍士官学校(Camden Military Academy)に学んだこともあるし、ウェイクフォレスト神学校にいたこともあるのですが、どうも放校処分になっていたようです。
バイロン(Byron)の「ドンジュアン(Don Juan)」を引用したり、ロングフェロー(Longfellow)の物語詩「エヴァンジェリン(Evangeline)」を暗唱したり、確かにディランの好きそうな人です。
レイは「a too-and-die factory」で働いていたと書いてありますが、金型工場ということでしょうか。
その前にはサウスベンドのパン工場や、オマハの屠殺場と、いろいろな仕事を経験しながら、グリニッチ・ビレッジに流れついたのです。
ディランがレイに屠殺場はどんなところだったか尋ねます。
「アウシュビッツって聞いたことがあるかい?」
これがレイの答えです。
もちろん聞いたことはあった。
聞いたことがないやつなんているのだろうか。
ヨーロッパにあった死の収容所だ。
ゲシュタポの長官アドルフ・アイヒマンが管理していたんだ。
最近エルサレムで裁判が始まった。
戦後に逃亡していたのだが、アルゼンチンのバス停でイスラエル人に捕まった。
ディランは急にナチの蛮行とイスラエル国家による裁判のことを書き始めます。
エルサレムでアイヒマンの裁判が始まったのは1961年2月11日、死刑が宣告されたのが1961年12月2日です。
 →『ウィキペディア (Wikipedia)』アドルフ・アイヒマン
p.28に入りました。
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CHRONICLES #13 (Bob Dylan)

千本浜 2004年11月12日

【追記】No.1
ふと気づいたのだが、どうも管理工学研究所は、松茸のサポートをやめたのではないだろうか。
日本語IME(入力ソフト)の話であります。
DOSの時代にVZeditor+松茸という組み合わせで文章を書くようになった。
あれはまだ80年代だったかしら。
一太郎Ver.4で書いていたらPCがフリーズして、一晩の成果およそ四千字ほどが消えてしまったのだ。
これに懲りて新松に乗り換え、松茸に馴染んだ。
さらにワープロよりもエディターの方が軽いので、VZ+松茸になったのだ。
日本語FEP(Front End Processor)という呼び方をしていたなあ。
Windowsの時代になってからはWZeditor+松茸。
WZは一つ前のバージョン(Ver.4)の方が軽いので、それを使い続けている。
私は手書きだと四百字詰め原稿用紙5枚程度でもヒーヒー泣きが入るほど字を書くのが苦手なのだが、PCのキーボードを打つのなら、一晩で400字×20枚程度でもそれほど苦ではない。
以前はそれで糊口を凌いでいたのだ。
こうなると、松茸は手放せない。
少しでも違う動作の入力ソフトだと、途端に入力速度が落ちるのだ。
特にM$の日本語IMEとかいうのは使えない。
それなのに、松茸はどうも生産終了品扱いになっているらしい。
自動車を運転していて、じゃあ5分後にメガネ外しますよと言われた感じ。
夜中に、急に心配になってしまった。
そこでWnnに乗り換えようという結論になった。
LinuxやBSDでおなじみのソフトだ。
FreeWnnというのもあるが、その製品版のWnn7をオムロンが出していて、Linux機で作業をする時はこれを使っている。
Wnn98というWindows版のWnnが出ていたはずだ。
ところがオムロンのサイトに行ってみると、本来の対応OSは「Windows95/98/NT4.0」。
あら、Wnnよ、お前もか……。
うんぬ、困った。
ちなみに、携帯電話の日本語入力には、このWnnを採用しているメーカーが増えているはずです。



第一章「Markin’ Up the Score」では、プロとして契約を結ぶところと、その少し前にニューヨークに出てきてグリニッチ・ビレッジで歌うところが描かれていました。
年代記という意味のタイトルなのに、何年何月にこういうことがあったという編年体ではありません。
とりあえずプロとして活動を始めた時に強烈に印象に残っていること、鮮やかに思い出すことから書き始めたのかもしれません。
自信と希望に満ちた若者が第一章のボブ・ディランでした。
登場する曲名や人名もさることながら、やはり文章そのものがやっぱりディランなのでわかりにくいところがあります。
本人は曲を作る時ほど凝っていない素直な言い回しのつもりなのでしょうが、よく調べないと大誤読しそうです。
いや、間違って読んだっていいんですよ。
日本語の歌詞や文章だって、そんなに厳密に読み取ってはいませんよね。
第二章は「The Lost Land」という題が付いています。
ウッディ・ガスリーの「This Land Is Your Land」や、一神教(ユダヤ教/キリスト教/イスラム教)の「promised land」なんぞ思い浮かべながら、p.25に入っていきます。
ベッドの中で身体を起こして、周囲を見回した。
そこはベッドではなくてリビングのソファで、ヒーターからは湯気が上がっていた。
いきなり回想記っぽいですね。
本当にそういう目覚めがあったのでしょう。
暖炉の上には、植民地時代のかつらを付けた肖像画がこちらを見つめています。
引き出しの付いた楕円形のテーブル、手押し車のような椅子、小さな机、長椅子(カウチ)、フランス風の敷物……ディランはどこで寝ていたのでしょうか。
ブラインドを通して光が差し込んでいます。
その部屋はジントニックと木精と花の香りがしています。
連邦様式の建物(a Federal style building)の最上階と書いてありますが、何だかわからないので辞書を引いてみます。
リーダーズ英和辞典によると、「1790年ころから1830年ころの米国で流行した古典主義復興の様式」だそうです。
なんとなくわかったような感じもしますが、一応googleで探してみると、なるほど、やっぱりこういう感じねとわかります。
インターネットというのは、何よりもまず巨大な検索システムなんですね。
 →ARCHITECTURAL STYLES of AMERICA / FEDERAL (1780-1820)
 →American Federal(Adam Style)c. 1780 – c. 1840
 →Federal Style 1790-1830
リーダーズ英和の定義と少し時期がずれている説明もありますが、だいたい見当がつきました。
この建物は運河近くのベストリストリート(Vestry Street)にあって、ハドソン川も近くです。
同じブロックにはブルズヘッドという居酒屋があって、ブース(John Wilkes Booth)がよく飲みに行っていたとディランは書いています。
アメリカのブルータス、ジョン・ウィルクス・ブースと言われても、誰のことかわかりませんね。
1865年4月14日に、リンカーン大統領を撃った人物です。
 →A History of John Wilkes Booth
ディランはそこで悪酔いして、ブースの亡霊を見たことがあるそうです。
で、これはいつのことを書いているのかしら。
まだp.25が終わったところです。
www.iraqbodycount.org www.iraqbodycount.org
www.iraqbodycount.org

CHRONICLES #13 (Bob Dylan)

千本浜 2004年11月12日

【追記】No.1
ふと気づいたのだが、どうも管理工学研究所は、松茸のサポートをやめたのではないだろうか。
日本語IME(入力ソフト)の話であります。
DOSの時代にVZeditor+松茸という組み合わせで文章を書くようになった。
あれはまだ80年代だったかしら。
一太郎Ver.4で書いていたらPCがフリーズして、一晩の成果およそ四千字ほどが消えてしまったのだ。
これに懲りて新松に乗り換え、松茸に馴染んだ。
さらにワープロよりもエディターの方が軽いので、VZ+松茸になったのだ。
日本語FEP(Front End Processor)という呼び方をしていたなあ。
Windowsの時代になってからはWZeditor+松茸。
WZは一つ前のバージョン(Ver.4)の方が軽いので、それを使い続けている。
私は手書きだと四百字詰め原稿用紙5枚程度でもヒーヒー泣きが入るほど字を書くのが苦手なのだが、PCのキーボードを打つのなら、一晩で400字×20枚程度でもそれほど苦ではない。
以前はそれで糊口を凌いでいたのだ。
こうなると、松茸は手放せない。
少しでも違う動作の入力ソフトだと、途端に入力速度が落ちるのだ。
特にM$の日本語IMEとかいうのは使えない。
それなのに、松茸はどうも生産終了品扱いになっているらしい。
自動車を運転していて、じゃあ5分後にメガネ外しますよと言われた感じ。
夜中に、急に心配になってしまった。
そこでWnnに乗り換えようという結論になった。
LinuxやBSDでおなじみのソフトだ。
FreeWnnというのもあるが、その製品版のWnn7をオムロンが出していて、Linux機で作業をする時はこれを使っている。
Wnn98というWindows版のWnnが出ていたはずだ。
ところがオムロンのサイトに行ってみると、本来の対応OSは「Windows95/98/NT4.0」。
あら、Wnnよ、お前もか……。
うんぬ、困った。
ちなみに、携帯電話の日本語入力には、このWnnを採用しているメーカーが増えているはずです。



第一章「Markin’ Up the Score」では、プロとして契約を結ぶところと、その少し前にニューヨークに出てきてグリニッチ・ビレッジで歌うところが描かれていました。
年代記という意味のタイトルなのに、何年何月にこういうことがあったという編年体ではありません。
とりあえずプロとして活動を始めた時に強烈に印象に残っていること、鮮やかに思い出すことから書き始めたのかもしれません。
自信と希望に満ちた若者が第一章のボブ・ディランでした。
登場する曲名や人名もさることながら、やはり文章そのものがやっぱりディランなのでわかりにくいところがあります。
本人は曲を作る時ほど凝っていない素直な言い回しのつもりなのでしょうが、よく調べないと大誤読しそうです。
いや、間違って読んだっていいんですよ。
日本語の歌詞や文章だって、そんなに厳密に読み取ってはいませんよね。
第二章は「The Lost Land」という題が付いています。
ウッディ・ガスリーの「This Land Is Your Land」や、一神教(ユダヤ教/キリスト教/イスラム教)の「promised land」なんぞ思い浮かべながら、p.25に入っていきます。
ベッドの中で身体を起こして、周囲を見回した。
そこはベッドではなくてリビングのソファで、ヒーターからは湯気が上がっていた。
いきなり回想記っぽいですね。
本当にそういう目覚めがあったのでしょう。
暖炉の上には、植民地時代のかつらを付けた肖像画がこちらを見つめています。
引き出しの付いた楕円形のテーブル、手押し車のような椅子、小さな机、長椅子(カウチ)、フランス風の敷物……ディランはどこで寝ていたのでしょうか。
ブラインドを通して光が差し込んでいます。
その部屋はジントニックと木精と花の香りがしています。
連邦様式の建物(a Federal style building)の最上階と書いてありますが、何だかわからないので辞書を引いてみます。
リーダーズ英和辞典によると、「1790年ころから1830年ころの米国で流行した古典主義復興の様式」だそうです。
なんとなくわかったような感じもしますが、一応googleで探してみると、なるほど、やっぱりこういう感じねとわかります。
インターネットというのは、何よりもまず巨大な検索システムなんですね。
 →ARCHITECTURAL STYLES of AMERICA / FEDERAL (1780-1820)
 →American Federal(Adam Style)c. 1780 – c. 1840
 →Federal Style 1790-1830
リーダーズ英和の定義と少し時期がずれている説明もありますが、だいたい見当がつきました。
この建物は運河近くのベストリストリート(Vestry Street)にあって、ハドソン川も近くです。
同じブロックにはブルズヘッドという居酒屋があって、ブース(John Wilkes Booth)がよく飲みに行っていたとディランは書いています。
アメリカのブルータス、ジョン・ウィルクス・ブースと言われても、誰のことかわかりませんね。
1865年4月14日に、リンカーン大統領を撃った人物です。
 →A History of John Wilkes Booth
ディランはそこで悪酔いして、ブースの亡霊を見たことがあるそうです。
で、これはいつのことを書いているのかしら。
まだp.25が終わったところです。
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CHRONICLES #12 (Bob Dylan)

事務所付近 2004年11月17日

【追記】No.2
リンク先で延々と、ゴミがいかにゴミであるか論証してくださっています。
御苦労様です。
勝手に質問攻めにしてオレ様の質問に答えろとか、オレ様の約束に従えとか、そんなものは即刻削除していいのだということがよくわかりますな。
つまり、嫌がらせのための嫌がらせですから。
そういう輩は相手の反応が餌みたいなものなので、餌を与えてはいけません。
楽天広場の女性住民が特に狙われているようですね。
サイトの編集権は、まとわりついてきたストーカーのようなものにはありません。
ネズミの糞以下のものを貼り付けられたら、さっさと削除してください。
【追記】No.1
ふと枕許を見ると、エリック・クラプトンの『アンプラグド』が転がっておりました。
6曲目に入ってますな、「Nobody Knows You When You’re Down and Out」。
amazon.co.jpで調べてみると、邦題は「ノーバディ・ノウズ・ユー」になってます。
もう少しどうにかならなかったんかい。
日本盤はamazonで2325円(悪税込)。
輸入盤はamazonで980円(悪税込)。
もう少しどうにかならないんかい。
本家amazon.comだと、この曲も試聴できます。
Unplugged [LIVE] /Eric Clapton



フォークロア・センターの奥にあるイジーの部屋で、ディランはいろいろな曲を教わります。
The Country Gentlemenの「Girl Behind the Bar」を聴けとか、Charlie Pooleの「White House Blues」を弾いてみせて、これはThe Ramblersが演ったとおりの演奏で、ディランにぴったり合ってると言ったりします。
 →The Country Gentlemen
 →Charie-Poole.com
 →Charlie Poole and the North Carolina Ramblers
 →「White House Blues」楽譜とMIDIファイル
このあたりをgoogleで検索して潜っていくとおもしろいですね。
いくら時間があっても足りません。
ある寒い日にディランがこんなふうにイジーの部屋で修業を積んでいると、あるいは遊んでいると、通りから大男が入ってきました。
まるでロシア大使館から来たような風体の男は、上着の袖の雪を払い、手袋をはずしてカウンターに置くと、煉瓦造りの壁に掛けてあるギブソンのギターを見せてくれと言いました。
センターでは楽器も売っていたのです。
デイブ・ヴァン・ロンクでした。
以前ディランが口もきけなかった、あこがれの歌手です。
ロンクがギターを試し弾きして置くと、ディランは思いきって近づきます。
お店の若造という立場ですから、ギターに手を置いて、ついでに尋ねます。
「Gaslightで働くにはどうすればいいんですか。誰かご存知ですか?」
馴れ馴れしくならないように気をつかってます。
「門番の仕事をしたことある?」
ぶっきらぼうにロンクが答えます。
ディランはないと答え、歌を聞いてもらえないか尋ねます。
快諾を得て歌ったのが、「Nobody Knows You When You’re Down and Out」でした。
 →http://www.theguitarguy.com/nobodykn.htm
ニーナ・シモン、エリック・クラプトン、ロッド・スチュワートとまあ、実にいろいろな人が歌っています。
憂歌団の「ドツボ節」も同じ曲ですね。
 →憂歌団「ドツボ節」の歌詞
ディランの歌を気に入ってくれて、デイブはディランに名前やニューヨークに来てどのぐらいになるか聞いてきます。
そして、自分の持ち時間の中で数曲歌わないかと言ってくれます。
「The Gaslight」で歌えるというのは、大きなステップアップでした。
フォークロア・センターを出て「Mills Tavern」というコーヒーハウスへ行くのですが、もう気もそぞろ。
仲間のフラメンコギター奏者フアン・モレノ(Juan Moreno)が新しいコーヒーハウスができたぜと教えてくれるのですが、かろうじて耳に入ってくるだけです。
フアンの唇が動いているのに、その声が聞こえてきません。
自分は「The Gaslight」で認められるので、もう劣悪な環境のコーヒーハウスで歌う必要はなくなる。
運命が姿を現したのだと、ディランの自信は並外れたものがありました。
これでp.22。
このページで第一章が終わりました。
次は第二章「The Lost Land」です。
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CHRONICLES #11 (Bob Dylan)


千本浜 2004年11月16日

【追記】No.2
イラクにおける戦争犠牲者数を示すバナーを貼って一週間が過ぎた。
米軍のイラク軍事侵攻によって亡くなった民間人の数。
イギリスの市民団体によるもので、根拠はマスコミに報じられた死者数である。
実数よりもかなり少なめだし、大規模な殺戮があっても数字に反映されるまで時間がかかる。
毎日バナーを貼っているが、表示する度に「IRAQ BODY COUNT」から数字の画像を読み込むので、古い日記に貼った画像も同じ数字になってしまう。
初日、11月9日付日録にその数字が書いてある。
《 Minimum:14272 》
明けて11月17日になろうという深夜。
《 Minimum:14400 》
今もイラクでは米軍によって民間人が殺されているのだということを忘れないように、毎日貼り続けます。
日本政府がそれを積極的に支持しているということを忘れないためにも。
【追記】No.1
「子供にはこういってやんな」
amazonから荷が届いた。
あれ、何だろう。
すっかり忘れていたわ。
『小さな恋のメロディ』のDVDが出たんだ。
まだ開封していない。
今度の休みに観よう。
ビージーズの曲が印象的だったけど、エンディングはCSN&Yで「Teach Your Children」
ナッシュさんの曲ですね。
温かくてきれいです。
CSN&Yというと個性派のヤングや本命のスティルスという感じですが、実はC&Sかなあという気もします。
デビッド・クロスビーとグレアム・ナッシュ、この二人はディランが「Cafe Wha?」で出会ったフレッド・ニールの影響が大きい、いわゆる「フレッド・ニールズ・チルドレン」なんですね。
この「Teach Your Children」を、中山ラビさんが歌っていました。
訳詞は故中山容さんです。
題して「子供にはこういってやんな」。
 ♪ 子供には こういってやんな
 ♪ 親父の地獄は ゆっくりと消えてく
 ♪ 夢がお前を育て 拾えば
 ♪ それがお前 その夢でつながってるのさ
ラビさんの弾き語りにギター、バンジョー、男声コーラスが付いたライブバージョンが、『続関西フォークの歴史』に入っています。



ディランは非常に複雑な現代社会に興味を持っていなかった。
タイタニック号が沈む話や、ガルベストンの洪水、鋼鉄を駆るジョン・ヘンリー西バージニア鉄道で人を撃つジョン・ハーディ、そんなものを歌った歌が好きだった。
実際、当時はそんな歌が歌われていたのだ。
ディランはイジーの部屋でこんなものを聴き漁る。
イジーはちょっと変わった人物だったようで、ディランのことをあれこれと質問攻めにする。
そして、それを日記に書き留めるのである。
イジーに尋ねられて、ディランは一緒に暮らしていた母方の祖母のことを答える。
高潔で優しい人だった。
幸福とはどこかにいたる道にあるのではなくて、道が幸福なのだと教えてくれた。
それから、人には親切にしろと教えてくれた。
これからお前が出会う人は誰も皆、激しい闘いをしているのだから。
イジーの闘いが何なのかは、わからなかった。
社会的不公平や、飢えや、ホームレスといった問題にかかわるような人で、それを公言していた。
エイブラハム・リンカーンとフレデリック・ダグラスを尊敬していた。
究極の魚釣り物語『白鯨』が、彼の大好きなほら話だった。
イジーはいつも借金取りや地主の命令に苦しめられていたが、そんなことではへこたれなかった。
ワシントン広場でフォーク・コンサートが開けるように闘った。
みんなイジーの味方をした。
これでp.21に入りました。

千本浜 2004年11月16日
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